第7話『一日を終えて』
雛が芽依に呼ばれて出て行った後、優人は使い終わった二人分のマグカップ、ついでに溜まっていた洗い物の片付けを始めた。
しっかり飲み干された雛の分のマグカップ。色々と慌ただしく事を進めてしまったが、ひとます落ち着いてくれたようで良かった。雛が家出を選択するほどの家庭事情など問題はまだまだ山積みだけど……まあ、その辺りの話し合いは明日の雛と芽依次第だ。
洗い物を進める最中、ふと視線を上げて目の前の壁を見る。この壁を挟んだ向こう側に雛がいる。とりあえずホテル感覚で一泊ということだけど、もし仮に今後も住むことになったとしたら。
「空森がお隣さんねえ」
一つの可能性を口の中で転がす。
学校でも抜群の人気を誇る美少女がお隣さん。雛に好意を寄せる男子にとっては垂涎の状況というヤツだろう。そう考えると学校の連中にはバレないようにした方が安全だ。下手なやっかみを生みそうだし、隣人だからというだけで変な仲介役でも持ちかけられそうだ。
とはいえ、それもこれも住む場合になったの話。今考えても仕方ない。
考えを切り上げて水道の蛇口を止める。流しのすぐ脇にある水切りラックに洗った食器を並べ終わったところで、部屋のインターホンが鳴った。
「芽依さんか?」
布巾で手に残った水分を拭き取りながら、何気なしにドアを開ける。
「こ、こんばんは」
「……おう。どうかしたか?」
玄関を開けた先にいたのは雛だった。夜風で静かに髪を揺らめかせる中、やけにしどろもどろな彼女が抱えているのはタオルやヘアブラシなど。頬を赤らめて身体をもじもじとさせた雛は顔を俯かせ、少ししてからまた上げる。
「……あの、お風呂、貸してもらえませんか?」
「……は?」
思わず首を傾げて聞き返してしまう。思いの外低く出てしまった声に雛が身を竦めてしまったので、優人は一度咳払いしてから言葉を続けた。
「悪い。自分の部屋のを使えばいいだろって思ってさ」
風呂を貸すのが嫌とかでなく、単純にそうする理由が分からない。一夜とはいえ自分の城を手に入れたのだ。気兼ねせずというのは雛の性格的に難しいのかもしれないが、備わっている設備は大手を振って使えばいい。
そんな優人の当然の反応に、雛は「それがですね」と前置きを挟む。
「木山さんから言われたんですけど、電気と水道はどうにかなったらしいのですが、ガスだけは今日すぐにとはいかないらしく……」
「あー」
そういえば優人もここに入居した時、ガスの開通に関しては業者と住人との立ち会いが必要ということがあったろうか。つまり現状、給湯設備が使用不可らしい。
「そしたら木山さんから、今夜は先輩の部屋で貸してもらってと言われてしまって……」
「あー……」
二度目の相槌はさっきよりも重苦しく漏れた。
せめて前もって確認するぐらいのことはしてくれないのだろうか。もちろんすぐ隣でおまけに知り合いなのだから選択肢としては順当かもしれないが、現家主の意向ぐらい少しは汲んで欲しい。
いや、そもそも雛をここに連れてきた張本人の優人が言えたことではないかもしれないが。
「だめ、ですか?」
優人が額に手を当ててため息をつく中、雛の瞳は未だゆらゆらと所在なさげに揺れている。年上の異性の部屋で風呂を借りようとしているのは相応に恥ずかしいのか、ほんのり色づいた頬と直視を避けた上目遣いが優人に注がれる。
雛に特別な感情を抱いていない優人ですら、自然と胸が高鳴ってしまうような表情。
(確か少し歩けば銭湯が……いや、あそこは改装中だったか)
女の子相手に一日風呂を我慢しろ、なんて言えるわけもないし。
「……ちょっと待ってろ。風呂掃除してくるから」
「あ、ありがとうございます!」
不安で陰っていた表情から一転、ぱあっと明るく咲いた雛の顔。やはり女の子にとって、一日の終わりの入浴の有無は死活問題らしい。
とりあえず再び雛を部屋に上げ、優人は手早く、けどいつもよりは力を入れて浴槽の掃除を行う。給湯ボタンをオンにすれば十分もしないうちにお湯が溜まったアナウンスが聞こえてきた。
雛と入れ替わりでリビングに腰を落ち着けると、「せんぱい」と微かに震えた声が背中を撫でる。振り返った先、洗面所兼脱衣所の引き戸から顔半分を出してこちらを窺う金糸雀の瞳。
「貸してもらってる手前、こういったことを言うのは心苦しいのですが……」
「覗かないから安心しろ。何だったら空森が上がるまで俺は外に出てるか?」
「そ、そこまでしなくていいですっ。言ってしまった後でなんですけど、先輩はそういう人じゃないとは思ってますから」
「そりゃどうも」
一定の信頼は得られているらしい。ならそれに見合う程度の行動はするとしよう。
「ほら、さっさと入れ。今日は色々大変だったろうし、しっかり湯船に浸かって疲れを落としてこい。シャンプーとか置いてあるもんは好きに使っていいから」
「はい、それじゃあ頂きますね」
最後に淡く口許を緩ませ、雛は洗面所の引き戸を閉める。しばらくしてから浴室のドアを開く音が聞こえ、次いでシャワーが流れ始めた。
「…………」
落ち着かない。雛への恋愛感情はともかく、少なくとも絶世の美少女だということに関しては優人も大半の男子と同意見だ。
そんな男子憧れの彼女が今、自分の部屋で生まれたままの姿を晒している。男の
壁を挟んで耳に届く、くぐもった水流の音。断片的な情報だけになまじ想像をかき立てられてしまい、対策が必要だと判断した優人はスマホにワイヤレスイヤホンを繋ぐ。動画サイトにアクセス、『プロの絶叫』と評判の人気ホラーゲームの実況プレイ動画をタップにするのだった。
「――、――ぱい、先輩っ」
「うおっ!?」
整った顔立ちがいきなりどアップで現れる。ひっくり返りそうになった身体をすんでのところで持ち直すと、いつの間にか風呂上がりの雛がすぐ近くまで来ていた。
「何だよいきなり、びっくりするな」
「だって声かけても反応してくれないんですもの。動画を見てたんですね」
ほんのりと唇を尖らせた雛は「何見てるんですか?」と優人の手元を覗き込むが、そこに映っているのがホラーゲームと分かるや否や、過敏なまでの反応で明後日の方向へと顔を逸らした。どうやらそういった系統は大の苦手らしい。
雛が入浴を終えた以上、理由も無くなったので動画を閉じると、恐る恐る視線を戻した雛は「お風呂、ありがとうございました」と頭を下げた。そのまま持参したヘアブラシと折り畳みの鏡で髪の手入れを始める。
すでにドライヤーで乾燥を済ませたらしい髪を、雛は慣れた手付きで整えていく。微かに湿り気を残した髪をまず毛先から、そして次第に根元にと一定の丁寧なリズムでヘアブラシを走らせる様子からは、普段から入念な髪のケアを行っていることが伝わってくる。
そんな雛の寝間着は厚手の生地で出来た水色のパジャマだ。肌触りの良さそうな上下セットはシンプルな作りだが、湯上がりの火照った素肌とふわりと漂う甘い匂いのせいで何やら清楚な色気というものが感じられる。
それに……何というか、こうして着込まない姿を目の当たりにすると思ったよりも
「どうかしました?」
優人の視線に気付いた雛が首を傾げる。
「いや、髪の手入れは大変そうだなと思ってな」
「ケアを怠ると、毛先なんかはすぐに痛んでしまいますから。でも慣れると楽しいですし、趣味の一つみたいなものですよ」
「趣味ねえ。ま、そんだけ綺麗ならやりがいもあるだろうな」
「――綺麗、ですか?」
意識せずに口を突いて出た称賛の言葉を雛が繰り返す。しまったと思ってももう遅く、ここはあえて平然な振りをして会話を続ける。
「綺麗だろ。一目見ただけでもよく手入れしてるんだなって思えるし、ウチのクラスの女子が羨ましいって話してたこともあったぞ」
これに関しては本当だ。雛のことを話題にした同級生の会話を小耳に挟んだことがあるが、女子としては比較的短い髪でも際立つキューティクルに興味津々だった覚えがある。
なるべく頬に熱が集まらないように息を吐きながら告げると、しばし呆けたように止まっていた雛は口に手を当てて、こほんと誤魔化すような小さな咳払いをした。
「……先輩って意外と女たらしなんですね」
「何でそうなるんだよ。ただ事実を言っただけだろうが」
憮然に言い放っても、雛は「そういうところですよ」と返すだけでを表情を変えない。どうにも気恥ずかしい空気が場に流れて、優人は急いで別の話題を探した。
「ところで部屋はどうだった? ガス以外は問題なさそうか?」
「ええ。むしろ快適でびっくりしました。角部屋で、しかもすでに大体の家具とか家電は揃っているんですもの」
強引な話題の転換に雛は乗ってくれた。
「前の住人の置き土産だ」
「みたいですね。木山さんから聞きました。それで、さすがに無償で泊まらせてもらうわけにもいかないので、せめて一泊分相当の代金だけは払おうとしたんですけど……」
「断られたか?」
「……悔しいです。じゃんけんの結果、
「まけられた側が悔しがるのかよ……」
頬の膨らみ具合から考えるに本気で悔しがっている。普通逆ではなかろうか。無料という一線だけはなんとしても踏み越えまいとした雛を見かねて、芽依も受け取ったんだろうけど、カプセルホテルも真っ青な宿泊料だ。
こんな時でも生真面目さは健在か、なんてある意味尊敬の念すら覚えていると、今度は雛の方が「びっくりしたといえば」と話題を切り替えてくる。金糸雀色の瞳が感心したように優人を見つめる。
「私、先輩が一人暮らしなことにも驚きました。高校生でなんて珍しいじゃないですか」
「親の仕事の都合でな。両親揃って海外で働いてるんだよ」
「ご両親は何を?」
「母さんはフリーランスのパティシエ。基本はホテルの厨房で働いてるらしいけど、たまに結婚式みたいなイベントとかコンクールの審査員とかもやってたりする。で、父さんがそのスケジュール管理とか仕事に関する窓口担当。専属のマネージャーみたいなもんだな」
「……なるほど、だから先輩の作ったクッキーは美味しかったんですね。では、先輩も将来はそちらの道に?」
――そう尋ねられた瞬間、胸の奥のかさぶたがじゅくりと痛んだ。
いつもは封じ込められているのに、こうして何かの拍子に鎌首をもたげる傷跡。トラウマなんていうほど深いものではなくなったけれど、根深くこびり付いたものはなかなかどうして消えてくれない。
「――いや、特にそういう考えはないな。ほら、あれだ、趣味を仕事にしたくないって言うだろ? どっちにしても俺のは素人に毛が生えた程度のもんだし、親がそうだからって簡単になれるもんでもないさ」
一呼吸置いてから口を開いたくせに、続く言葉はどうにも早口でまくし立てるようになってしまった。もう少しさらっと受け流せないもんかと些細な自己嫌悪を感じる中、答えを聞いた雛は優人に向けていた視線を鏡に戻した。
「そうですね」
短く一言、もう興味は尽きましたといった感じの淡泊な言葉。その素っ気なさが逆にありがたく思えた。もしかしたら、なんとなく察して引いてくれたのかもしれない。
そうして訪れた静寂は、やがて雛が折り畳みの鏡を閉じる音で終わりを迎えた。
「そろそろお
「ああ。ゆっくり休めよ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
髪の手入れを終えた雛は再三のお礼を口にして立ち上がり、そのまま玄関の方へと向かう。優人も見送りがてら後を追うと、玄関を開けた雛がおもむろにこちらを振り返った。
「先輩」
「ん?」
「――おやすみなさい」
恥じらいの中にほんの少し親しみを混ぜた雛の表情。小さいくせに耳に響いた声音に呆気に取られていると、その間に雛の姿は玄関の向こうへと消えていった。
……今の不意打ちはずいぶんと破壊力があった。
ざわざわと騒ぐ心臓をなだめ、優人はタオルと寝間着を取り出して洗面所に入る。今日は色々とあって疲れたし、自分も湯船に浸かって疲れを落とすとしよう。
「…………」
なんて思っていたのだが、いざ浴槽を前にした優人は無言で栓を抜き、シャワーだけで済ませるのだった。何だか罪悪感があった。
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