第8話『改めてのご挨拶』
雛が隣の部屋で一泊することになった翌日。三連休の二日目で天気にも恵まれた絶好の外出日和ではあったが、優人は特にどこかに出かけるもこともなく自宅で過ごしていた。せいぜい昼時に近くのコンビニに買い物に行ったぐらいで、あとはテレビを見るなり菓子関連の料理本を読むなりでだらだらと。
特に行きたいところがなかったというのも理由だが……もしかしたら
寝転がっていたベッドから反動をつけて起き上がり、そのまますぐ玄関へ。鍵を外して玄関のドアを開けると、来訪者はやはり予想通りの相手だった。
「こんにちは、天見先輩」
「おう」
昨日とは装いを変えて私服に身を包んだ雛。ハイネックのニットにジーンズというコーデがこれまたよく似合っているが、優人の注目は別の方に向いていた。
「眼鏡なんてかけるんだな」
「え? ――ああ、そういえば学校ではほとんどかけてませんからね」
納得したように相槌を打った雛の細い指が、アンダーリムの眼鏡のつるに触れる。楕円形のレンズを通してもなお、雛の金糸雀色の瞳は透き通るように綺麗だ。
「ちょっと視力が悪いので、外では基本的にコンタクトなんですよ。でも家とか休日に少し外出するぐらいならこっちの方が楽なので」
「なるほどな」
楽でいてくれるなら何よりだ。優人としても、学校では見ることのない雛を知れて少し得した気分を味わえた。
「芽依さんとの話し合いは終わったのか?」
午前中から誰かが雛の部屋に訪れた気配は感じていた。現状雛が滞在していることを知るのは優人と芽依だけだから、昨日の宣言通り、これからの詳しいことについて話し合ったに違いない。
そして、優人の予想を決定づけるように雛は頷いた。
「はい。そのことで先輩にお話ししたいこともあるので、お邪魔してもいいですか?」
「ああ、玄関先で話すことでもないしな」
元より今日はそのつもりだ。自分から首を突っ込んだ問題には最後まで関わるべきだろう。
雛に「何か飲むか?」と訊いたら「お構いなく」と返されたが、手持ち無沙汰で話すのもどうも落ち着かない。前回と同じホットミルクは芸がないので二人分のカフェオレ(雛には気持ち砂糖多め)を作って持って行くと、クッションの上に座る雛はほんのりと優人を睨んできた。
「お構いなくって言いましたのに……」
「俺が飲みたかったからそのついでだ」
雛の前に片方のマグカップを置き、優人は対面から突き刺さる不服そうな視線には構わずに自分の分を飲み始める。立ち上る香りにすんすんと鼻を鳴らした雛も結局はマグカップに手を伸ばした。
「ありがとうございます。いただきます」
不服でもお礼と挨拶だけは怠らずこなすのが雛らしい。一口、二口と飲んで雛がほっと息をついたところで話を進める。
「それで話したいことってのは?」
「改めて昨日のお礼と、ご報告ですね。先輩――」
一旦マグカップを置き、リラックスした座り方を正座に正す雛。そうして優人の姿を真っ正面に収めると、ぴんと背筋を伸ばした姿勢で頭を下げた。
「これからお隣さんとして、よろしくお願いします」
深々と頭を下げたまま、明瞭な口調で紡がれた言葉。ある種の決意を帯びたようなそれを確かに聞き取った優人は、カフェオレで唇を湿らせてから口を開く。
「……そうか。ここに住むことにしたんだな」
「はい。今日のお昼過ぎぐらいに木山さんと正式に契約しました」
「でも大丈夫なのか? 家賃とか生活費とかそこら辺は」
一口に『一人暮らしする』と言っても問題は色々と山積みだ。その中の最たるものといえば、やはり金銭的な問題だろう。
芽依のことだ。家賃に関しては支払いを待つなり条件付きで融通してくれたりするかもしれないが、それにだって限度はある。仮に雛がバイトをするなりで稼ぐにしても、相当シフトを入れないことには家計も成り立たないだろう。
そんな優人の憂慮に雛は苦笑を浮かべると、「実は」と言葉を続けた。
「ここに住むこと、家の人に話したんですよ」
「……空森の家の人ってことか?」
「はい。家の人が認めるにしろ認めないにしろ、自分が今どうしてるか、どうしたいかを伝えるだけはした方がいいと木山さんから言われて。……そしたらですね、私の一人暮らしを認めてくれたどころか、家賃とかも向こうが負担してくれることになったんです」
「――え?」
「最初から家具とかは揃ってましたからね。初期費用を安く済ませられたのが決め手だったのかもしれません」
再びマグカップを手に取った雛が自分の表情を隠すように傾ける。その直前、「ラッキーですね」と付け足した雛の瞳が
だって、つまりそういうことだ。連絡を受けた相手は雛を説得して連れ戻すことと、費用だけは出してどこか
家出したいほどの感情を溜め込んでいた雛にとっては結果的に良かったかもしれない。でもそれは、もしかしたら何よりも残酷な結果かもしれなくて、雛もそれは理解しているはず。だから今も寂しそうな様子のまま顔を上げないのだろう。
居心地の悪い沈黙。
何か気の利いたことでも言えないかと口を開いては閉じてを繰り返していると、それよりも早く雛が顔を上げた。
「というわけでよろしくお願いしますね。
思ったより穏やかで、それでいて薄い膜を張ったような声音。雛のためにもここは踏み込まずに受け流した方が賢明だと判断した優人は、努めて平静な表情で「ああ」と答えた。
「まあ、何かあったら言ってくれ。お隣のよしみってやつだ」
「……なるほど、確かに先輩は世話焼きさんみたいですね」
「別に普通だろ。そもそもここに連れてきたのは俺なんだし。ってかおい、確かにってどういう意味だ?」
「木山さんから聞いたんですよ。先輩は一見無愛想系男子ですけど、なんだかんだ理由をつけて手を貸してくれるって」
「……言ってろ」
鼻を鳴らしてカフェオレの残りを一気に
その間、リビングの方から送られてくる視線はどうにもむず痒くてたまらなかった。
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