第6話『ほっとする一杯』

「……これ、一体どこに向かってるんですか?」


 歩き始めてからしばらく。最初は大人しく後を付いてきた雛も、閑静な住宅街に差し掛かってきたあたりで耐えかねたように声を上げた。


「俺が一人暮らししてるアパート」

「えっ」


 上擦った驚きの声と共に後ろの足音が止む。優人も足を止めて振り返れば、雛は自分の身を守るように両腕で抱き、優人からすすすと二、三歩ほど距離を取った。街灯に照らされた透明感のある白い頬にはうっすらと朱色が差し、懐疑的な視線が優人へと向けられている。


「まさか、先輩の家に泊めてくれるってことですか? 悪い人ではないと思ってますけど……それはさすがに」

「奇遇だな。俺も同じ考えだ」


 警戒心を露わにする雛にはあえて素っ気なく取り合う。言葉通り、優人だって自分の部屋に雛を泊める気はない。いよいよそれしか方法が残されていないならまだしも、普通に考えて思春期男女が一つ屋根の下で一晩というのは問題があるに決まっている。というか、単純に優人だって落ち着かない。


 いぶかしむ雛を無視して再び足を進める。真意を探るような視線はそのまま、結局それ以上何も言わずに付いてきた雛と共に『コーポとまりぎ』の前に辿り着く。そこには、優人が先ほどスマホで連絡を取った相手が待ち受けていた。


「夜遅くにすいません、芽依さん」

「まったくだよ。お姉さんを呼びつけるなんて優人くんも偉くなったもんだ」


 アパートの入り口を背に気にした様子もなくからからと笑う芽依は、見たところ部屋着に上着を羽織っただけのかなりラフなものだった。比較的近所に住んでいるとはいえ、自宅でくつろいでいるところを呼び出す形になってしまったのは申し訳なく思う。


 芽依の視線が優人の後ろへと移る。


「で、その子が電話で話してた子?」

「はい」


 そう答えると芽依は優人の脇を抜け、状況を計りかねている雛の前へ。女性としては高身長の芽依と平均的な背丈の雛。その身長差に雛がわずかに身を縮こまらせる中、芽依はふっと柔らかい笑みを浮かべてみせた。


「どうもこんばんは。そして初めまして。私はこのアパートの大家を務めてる木山芽依です」

「……空森、雛です」

「雛ちゃんね。どうぞよろしく」


 柔和な表情のままに差し出される芽依の手。おずおずと雛が握り返すと、人肌の温もりで落ち着いたのか、雛の肩が弛緩するのが見て取れた。この辺りは女性特有の温かさというか、年の功というか、お姉さん気質な芽依の雰囲気のおかげだろう。


「さて、先に謝らせてもらうね。悪いんだけど、雛ちゃんの状況はさっき優人くんから聞かせてもらったの。家出して、今のところ行くあてが無いんだよね」


 もしかしたら勝手に話したことで雛に眉をひそめられるかと思ったが、幸いその心配は杞憂だったらしく、雛は芽依の確認に「はい」と素直に頷いた。


「そんな雛ちゃんに一つ提案なんだけど、今このアパートの一部屋――ちょうど優人くんの隣が空き部屋なんだよね。で、絶賛入居者募集中で即入居OKなんだけど……どうかな?」


 見開かれた雛の瞳が優人へと向けられる。ここに連れてきた意図を完全に理解してくれたのだろう。雛の視線は優人、芽依、そして目の前に佇む『コーポとまりぎ』を一つ一つ噛み砕いていくように行き交い、やがて答えを出した雛は芽依を見て――力無く首を横に振った。


「ごめんなさい。申し出は本当にありがたいのですけど、ここに住むかどうか、具体的なことはまだ全然決められないです……」


 ぽつりぽつりと紡がれる雛の言葉を聞き、優人は静かに瞑目めいもくする。


 ……まあ、それもそうか。

 芽依を頼り、よかれと思ってここに連れてきたわけだが、普通に考えて物件の契約なんて二つ返事で決められるわけもない。優人も考えが足りなかった。

 しかし、芽依にとってはその答えは想定内だったらしい。気まずそうに俯く雛に向けて笑みを深めると、


「ま、そこら辺は明日にしよっか!」


 手にした重苦しい荷物を『そおい!』とぶん投げるような、そんなあっけらかんとした一言を言い放った。グッと突き出したサムズアップが大変勇ましい。


「え? あ、明日ですか?」

「明日。とりあえず空いてる部屋は貸したげるから」

「や、あの、だから住むかどうかは……」

「うん。だからとりあえず一泊、ホテルみたいな感覚で使ってもらうってことでさ。これから先どうするか、そういう詳しいことを考えるのは明日に回しちゃおう。それにほら、もう夜も遅いでしょ? 夜更かしは美容の大敵だから、お姉さんとしてもそうしてもらった方がありがたいんだよねー」


 ため息混じりにそう言って、芽依は見せつけるように自分の頬をさする。


 恐らく嘘だ。雛を気遣ってわざと自分を理由にしているのだろう。こういうさり気ない気遣いが上手い。


「いやほんと、雛ちゃんはまだ若いからある程度の無茶もできるだろうけど、夜更かしを侮らない方がいいよ? お肌にとって大事な成長ホルモンっていうのは寝ている夜中に一番多く分泌されるから、睡眠不足はイコールでお肌の天敵、紛うことなき死活問題なんだよ……!」

「は、はあ……?」


 何だか割と本音が混じってる気もするけど、たぶん気のせいだ。そう思っておこう。


「ゴホン――どうかな? 色々と込み入った話もありそうだし、落ち着いてからの方がいいと思うんだけど」

「……本当にいいんですか? 私なんて赤の他人なのに……」

「あはは、子供がいちいちそんなことで遠慮しなくていいの。女の子を一人夜の町に放り出す方がお姉さんとしては心配だよ」


 状況にそぐわない、逆に吹き飛ばすような明るい声音。とても眩しいものを目の当たりしたように目を細めた雛は、ややあって深くこうべを垂れた。


「……すいません。お言葉に甘えさせて頂きます」

「ん、了解了解。それじゃ急いで準備するから……優人くん、それまで君の部屋で待たせてもらってもいいかな?」

「分かりました。空森、部屋は二階だから」

「はい」


 雛を伴って二階へ続く階段を上がる。これで彼女も少しは腰を落ち着けることができるだろうか。 










「ほれ」


 部屋の準備が整うまでの間、一旦優人の部屋で待機することに。風呂・トイレ別の広めのワンルームの室内に上がるや否や、疲れた様子でテーブルの前にへたり込んでしまった雛に、マグカップに入れたホットミルクを差し出す。


 飲みやすい温度に温めた牛乳に砂糖とハチミツ、そしてほんの少しのシナモンパウダーを入れた一品。気持ちを落ち着かせたい時、ゆっくり休みたい時に昔から重宝していて、材料の配分や作り方は母からの直伝だ。


 一瞬コーヒーの方がいいかとも思ったが、数日前の自販機の一件を考えると甘い飲み物の方がいい気がした。そもそも夜にカフェインはオススメできない。


 うっすらと湯気を上らせるマグカップを見た雛は「ありがとうございます」と「いただきます」を呟き、ふーふーと冷ましてから飲み始める。コーヒーの時のように顔をしかめないところを見ると優人の判断は間違いではなかったらしい。


 優人も自分の分に口を付けながら、テーブルを挟んだ雛の対面で胡座をかいた。


「……何も訊かないんですね」

「何が?」

「私が家出した理由ですよ。気にならないんですか?」

「なるかならないかで言ったら気になるけど、軽々しく訊いていいもんでもないだろ。少なくとも、ただの癇癪かんしゃくってわけじゃなさそうだし」


 無謀ではあるけどな、と呆れ混じりに付け加えれば、雛はむすっと頬を膨らませた。けれどすぐに頬の空気は抜け、ゆるりと眉尻を下げる。


「ありがとうございます。こうして今日の宿を見繕ってもらえて、すごく助かりました」

「お礼なら芽依さんに言えよ。俺は仲介しただけだ」


 たまたま手札の中に切れるカードがあったから場に出しただけのこと。それに実際の面倒は芽依に任せてるわけなのだから、優人がお礼を言われるほどのことでもないだろう。


「もちろん言いますよ。でも先輩にも言わせてください。――本当にありがとうございます」


 マグカップを置いて居住まいを正し、雛は深々と頭を下げた。


「どういたしまして。まあ、今日はゆっくり休めよ。むしろ明日からの方が大変だろ」


 そう、肝心なことは何一つ解決してないのだ。雛にとっての正念場はこれから先だろう。「そうですね」と小さく答え、雛は再びマグカップに口を付ける。


「……先輩」

「ん?」

「この牛乳って、ひょっとしてお高いものです?」

「いや、スーパーで売ってる普通のやつだけど?」


 近所のスーパーで買った何の変哲もない品物だ。むしろ何種類かあった中で値段が安いものを選んだくらいなのだが。


「どうかしたか?」

「……いえ、なんでもないです。忘れてください」


 雛は澄ました顔でマグカップで口元を隠す。そう言われると逆に気になるのだが、少しでも安らぎの足しにでもなればと思って出したホットミルクだ。その目的を果たせているということで手を打とう。

 それからしばらく、芽依から呼ばれるまでの間、優人と雛は無言でマグカップを傾け続けた。その沈黙は不思議と心地良く、どうしてか優人の方まで気分がリラックスしてくる。


「――おいしい」


 だから優人は、雛が小さくこぼしたその一言を意識することもなかった。

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