初恋のゆずシャーベット(二)

 薄く開けたカーテンからは西陽が差し込んでいた。黄色く強い日差しがあかねの顔を照らしている。耕平こうへいは、茜の肌が焼けてしまわないようにサッとカーテンを引いた。

 当然だが、茜の口からお礼が聞こえてくることはない。


 ベッド脇の椅子に腰かけると、白く細い茜の腕がだらんと垂れ下がっていた。もう長い間動かない茜の腕は、触れれば折れてしまいそうなほど細い。

 包帯が取られた腕には幾つもの切傷があった。幾重にも付けられた細い線は、リストカットによるものだった。

 

 医者は、茜が今こうして眠り続け、目覚めない理由は分からないと言った。おそらくは違法薬物のせいだと思われるが、医学的にはっきりと原因を特定し、有効な治療を施すことができないとのことだった。

 医師は、本人に目を覚ます気があまりないのかもしれない、と付け加えて見解を述べた。


 医師の見解に耕平は、なるほど、としっくりとくるものがあった。それと同時に耕平の存在は目覚める理由にならないのだ、と烏滸おこがましくも卑屈な思いが浮かんだ。


 それでも、耕平は毎日こうして茜の眠る病室を訪れる。眠ったままの茜のそばに座って過ごす。ただ茜を見つめてるだけのこともあれば、静かな病室で本を読むこともある。

 

 心の底からもう一度茜と話がしたいと思っていた。


 耕平と一緒に病院へやってきた母親は、遠慮したのか病室まで入って来ることはなかった。

 

「あんたたち、二人で過ごす時間を大切にしなさい。お母さんはロビーで待ってるから、あとで呼びにいらっしゃい」


 と言った母親はもしかしたら、何かに勘づいていたのかもしれない。どちらにせよ、病室には茜と耕平の二人きりだった。


「──茜ちゃん」


 もう何度目になるか分からない。

 耕平は毎日決まって、こうして必ず最初に茜の名前を呼ぶ。返事が来ることはなかったが、それでも毎日呼び続けている。

 

 少しの間、返事を待つがやはり返事はなかった。

 返事がなくてもいつからか、がっかりしなくなっていた。慣れてしまったとは思いたくなかったが、耕平は茜が眠り続けている現状を受け入れ始めている。そんな自分が嫌だった。

 

 一日中茜と同じ時間を過ごすのは、小学生の夏休み以来だった。

 耕平は、茜が聞いていると信じて、色々なことを話した。

 特に小学一年生の夏休みのこと。茜と過ごした時間が如何に楽しいものであったか、耕平にとってその時間がどれほど大切であったか、そして茜のことがどれほど好きであるか。

 時間はいくらでもあった。幸い茜に話したいことが尽きることはなかった。


 この日、耕平は茜に話すことを予め決めていた。そのために母親にゆずシャーベットを持ってきて貰っていた。


「茜ちゃん。このゆずシャーベット覚えてる?」


 母親から受け取ったアイスボックスからプラスチックの容器を取り出す。触れると冷たくて、手が濡れた。


「このシャーベット。この味を一生忘れることはないって、茜ちゃん言ってたよね?」


 茜の枕元に一つ、耕平のすぐそばのテーブルに一つ、それぞれ容器をゆっくりと置く。ゆずシャーベットの入った容器は、あっという間にテーブルに小さな水溜りを作った。


「これを食べるためなら茜ちゃんもしかしたら目を覚ますかなと思ってさ。母さんに頼んで持ってきてもらったんだ」


 目の前の茜に反応はない。呼吸をしているのかすら疑わしくなるほど、動かない。それでも耕平はいつも通り話しかけ続けた。


「そうか。茜ちゃんの位置からじゃ、見えないもんね。開けようか? きっとゆずのいい香りがするから。そしたら、茜ちゃん、目を覚ましてくれるかな……」


 耕平は茜の枕元に置いた容器を手に取った。枕元のシーツに丸いシミができている。


 耕平はゆっくりと慎重に容器の蓋を開けた。言葉のとおり、ゆずのいい香りがふわりと病室に広がった。

 懐かしい香り。

 ゆずシャーベットの香りに包まれた茜を見ると込み上げてくるものがあった。


「茜ちゃん──。また、一緒に食べたいよ」


 ジワリと耕平の視界が曇る。泣かないと決めていた。寝たきりの茜を見ても、細く明らかに不健康な体を見ても、細い線が無数に走る腕を見ても、我慢してきた。これまで、この病室で泣いたことはなかった。

 けれど、我慢できなかった。

 茜が忘れられないと言ったゆずシャーベットは、耕平にとって初恋の味だった。茜にとっても、きっと──。


「茜ちゃん、食べないの?」


 くぐもった震える声で尋ねる。


「初恋の呪いだから? だから目覚めないの? ぼくと茜ちゃんは初恋同士だから。だから、結ばれないように、ぼくがいるこの世界と茜ちゃんの世界を隔ててしまったの?」


 自分の分の容器の蓋を外す。再びゆずのいい香りが広がった。


「ぼくは茜ちゃんが好きだ。大好きなんだよ。このゆずシャーベットは、ぼくの初恋の味なんだよ。茜ちゃんにとってもそうなんじゃないの? この味が、この香りが、初恋の呪いなんて無くしてくれる。ぼくは信じてる」


 耕平の言葉に茜の腕がピクリと動く。ゆずの香りを掴むように、ゆっくりと、ゆっくりと、ほんの僅か、ほんの少しだけ茜の腕が上がる。




【了】

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