初恋のゆずシャーベット(一)

 いつかあかねに連れてきてもらった半地下のレストラン。そこで耕平こうへいは、自分の母親を待っていた。


 耕平は、当初茜に早く目覚めてほしいと思う反面、目覚めてしまうとその瞬間に茜は逮捕されてしまうのではないかと不安だった。そのことを斉藤さいとうに打ち明けると、斉藤は「心配しなくても大丈夫。安心してください」と応えた。


「この病院の医師は、薬物中毒者を逮捕することが必ずしも本人にとって良いことだとは考えていないんです。通報するかしないかは完全に医師の判断に委ねられているのですが、ここの医師は藤堂とうどうさんのことを警察に通報していませんし、これからもしません」


 明言こそしなかったが、斉藤は敢えてそういう病院を選んだのかもしれない。そういう病院を選んで、予めこういう事態が起こったときに茜が搬送されるように事前に手を打っていたのだろう。

 どういう手段を講じたのか、具体的には分からなかったが簡単なことではないに違いないと耕平は思った。そして、そんな労力を惜しむことのない斉藤は信用できる。茜が斉藤に心を開いたことにも納得ができた。

 

 斉藤は、言葉のとおり耕平と一緒に茜を支えようとしてくれている。そして、茜のためになりそうなことであれば、どんなことでもする覚悟を見せた。耕平もそれに倣って考えうることはなんでもするつもりだった。

 

 だから、今茜に教えてもらったレストランで母親を待っている。

 茜に教えてもらったレストランは、いつのまにか耕平の行きつけのレストランとなっていた。それくらい長い間、茜が目を覚ますことはなかった。


 初めて斉藤に病室へと連れて行かれたときは、ショックと動揺を隠すことができなかった。

 もちろん、覚悟はしていたつもりだった。それでも、話しかけようが、頬に手を触れようが、なにをしようが無反応な茜を見たら、抗いがたい感情が溢れ出てきた。

 

 茜がいる病室は、いつ訪れても薄く呼吸をする茜が横たわっているだけ。そんな光景を何度も何度も目にするたびに耕平は打ちひしがれ、無力感に苛まれた。

 

 斉藤が「甘楽かんらさんも誰かを頼ってみてはどうですか?」と言ったのは、そんな耕平を見かねたからなのかもしれない。そのとき斉藤は「私だって甘楽さんに頼ってます」と付け加えていた。

 

 斉藤からそんな風に言われるまで、耕平はなにがなんでも自分の力だけでなんとかしたいと思っていた。医師でもないのに烏滸おこがましいが、本気でそう思っていた。

 けれど、斉藤の言葉で気がついた。それは、耕平のエゴだった。本当に茜のことを思うのであれば、耕平が落ち込んだり自分の無力さを悔やんだりすることは無意味なことだ。一つも茜のためになっていない。


 耕平はそのとき初めて自分の母親の存在を思い出した。母親は茜のことを心配していたし、普段口にすることはなかったが気にかけていたように思う。

 母親がなにか直接茜にしてあげられることがあるとは思わないが、痛みを分け合うことはしてもいいのではないかと思った。

 そして、耕平は茜の現状を母親に打ち明けた。母親は初めこそ驚いて言葉を失っていたが、最後は「どうしてもっと早く教えてくれなかったの」と言った。「茜ちゃん、きっと辛かったんだね」と電話越しに口にする声は震え、涙声だった。

 耕平もつられて泣いてしまった。電話越しとはいえ、母親を前にして泣くのはすごく久しぶりのことだったが恥ずかしいとは思わなかった。

 

 半地下のレストランには、耕平の他に客はいなかった。静かな店内に風鈴のようなささやかな鈴の音が鳴った。

 顔を上げると母親がいた。


「こうちゃん。なんだか久しぶりだね。たまに電話はくれるけど、ほとんど帰ってこないんだから」


「ごめん。いつでも帰れるからって思うとなかなかタイミングがなくて」


 母親は耕平の言い訳にふっと息を吐く。そして、「元気そうで良かった」と言った。

 きっと、本気でそう思ったわけではないのだろう。髪はボサボサに伸びっぱなしで、普段碌な食事を摂っているわけではない耕平は、お世辞にも健康的とは呼べない。それでも、母親は「良かった」と繰り返した。

 耕平は余計な心配をかけたかもしれないと思ったが、気にしないふりをした。


「茜ちゃんの様子はどうなの?」


「うん。よくはないと思う。もうずっと目を覚さないし」


「そう……」


 母親はウェイターに案内されて席に着くなり、茜の現況を尋ねた。現況はすでに電話で伝えていたし、そこから変化はなかったのだが、母親はそれでも知りたがった。


「それで? お母さんはどうしたらいいの? 言われたものは持ってきたよ」


 母親はやや暗くなった雰囲気を無理にでも変えようと目一杯明るい声で言った。バンバンと四角い小さな箱を叩く。他所行きの格好に不釣り合いなアイスボックス。

 耕平は母親にゆずシャーベットを持ってきてもらうように頼んでいた。それはあの日、茜と二人で食べたゆずシャーベットだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る