発覚(二)

 普通じゃないことはすぐに分かった。

 これでもかというくらい見開かれた目は充血していた。瞳孔が開いているように思う。

 それにさほど暑くもないのに、あかねは汗だくだった。

 

 なにかがおかしい。

 

 茜は一種のトランス状態のようだった。けれどそのきっかけや原因が耕平こうへいには分からなかった。

 

 しんの話がそうなのだろうか。

 それ以外には思い当たることがない。芯の写真に関心を持つようなことをしなければよかったのかもしれない。けれど写真に目を留めた耕平に反応して、芯の話を始めたのは茜の方だ。


「茜ちゃん、とりあえず落ち着こう」


 どうしていいか分からず、ありきたりな言葉をかける。しかし、茜は耕平の声が聞こえていないのか、ぶつぶつとなにごとかを呟き続けていた。

 わずかに聞き取れたのは「ふざけんなよ」とか「どこ? どこなんだよ、くそっ」といった乱暴な言葉だ。だれに宛てているものなのかさえ分からない。

 

 本当は背中でもさすりながら落ち着かせたいところだが、それはできそうもない。近づくことが躊躇ためらわれた。

 ふーふーと肩で息をする今の茜には、周りの全てを威嚇する野良猫のような不安定さがあった。真っ白な顔に真っ赤な目が浮かんでいる。

 

 耕平はどうすることもできずにただ興奮する茜を見ていることしかできなかった。離れることも近づくこともできず、ただ見ていた。

 

 ふと、腕に巻かれた包帯が目に付く。

 高校生のときから茜は腕に包帯を巻くようになっていた。

 かつて、短い間だったが付き合い、すぐに別れたあおいも同じように腕に包帯を巻いていたことを思い出す。

 そして、同時に彼女がクラスメイトたちからなんと言われていたかも思い出す。


『リスカしてるんだよ。それを隠すための包帯なんだって』


 リスカと略して、カジュアルに使われた言葉。

 言葉の響きとはあまりにも不似合いなそれは、自らの腕をカッターナイフなどで切り付ける自傷行為を指していた。精神的に不安定な者が、自身の存在意義を確かめるためにする行為だと聞いたことがある。

 本気で死ぬ気はないのだと、揶揄されていたように思う。

 

 確かに葵は精神的に不安定だった。だから、葵が陰でそんな風に言われていること自体に違和感を覚えたことはなかった。

 

 茜もそうなのかもしれない、と耕平は今になって、初めて思った。一度思ってしまうと、どうして今の今までそう思わなかったのか不思議なくらいだった。

 今の状態を見れば精神的に不安定であることはすぐに分かるのだが、耕平はこれまでそう思ったことはなかった。

 目の前で錯乱する茜は耕平の知る茜の姿とはかけ離れていた。

 しかし、幼い頃のことを大人になった今、注意深く思い返してみれば、そうなる材料はたくさんあった。


『耕平はアタシのことを知らない。アタシが知らせないようにしてるから』


 高校生のとき、茜から言われた言葉を思い出す。あのときは、茜にさよならを言われたことに動転して気に留めなかった言葉だ。

 耕平の知らない茜。茜が知らせないように──、見せないようにしている、茜の姿。日常。心の内。その一部が今目の前で錯乱する茜なのではないだろうか。

 

 茜が見せないようにしていたものを思うとたまらなかった。

 

 気が付くと耕平は茜のことを抱きしめていた。初めのうち、茜は耕平の腕を逃れようともがいていた。耕平は逃すまいと思って、茜がもがけばもがくほど抱きしめる腕に力を込める。

 茜は思っていたよりもずっと華奢な体をしていた。病的なほど薄っぺらかった。

 

 そうしているうちに茜から力が抜け、そして動かなくなった。

 ふーふー、という荒い息だけは変わらなかったが、じたばたと動かしていた腕をぶらんと力なく下げている。

 

 触れてみて初めて茜が小刻みに震えていることが分かった。

 いつから震えていたのだろう。なぜだか初めて出会った小学生のときから震えていたのかもしれないと思った。

 あのころは耕平よりも背の高かった茜が、今は耕平の腕の中にすっぽりと納まっている。


 そうすることに意味があるのかは分からなかったが茜の頭をそっと撫でる。耕平の手が触れると茜はふっと顔を上げた。充血し、泪でいっぱいになった瞳が耕平の顔のすぐ近くにあった。

 

 耕平は精一杯の優しさを持って微笑んだ。

 茜の表情が緩む。そして、表情が消えていく。見開かれていた目が薄く細くなった。


 ようやく落ち着いてくれた、と思った瞬間、耕平の胸に衝撃が走る。考える間もなく、不意を打たれた体はバランスを失って後ろに倒れた。


「そんな顔でアタシを見るなッ!!」


 何が起きたのか分からなかった。尻餅をついた格好の耕平を茜は物凄い形相で睨んでいた。遅れて、茜に突き飛ばされたのだと理解する。


「アタシは可哀想なんかじゃないッ!!」


 白い泡を口角いっぱいに溜めながら茜は怒鳴った。唾の飛沫が耕平の顔にかかる。

 今にも襲いかかって来そうな茜から目を離すことができなかった。いざそうなったら防御を取らなければならない。

 

 目を合わせている間は襲ってこないと、根拠もなく信じていた。まるで野生動物を相手にしているようだった。


 距離を取ろうと後ずさった手に何かが触れる。ビニールのような感触。茜から目を離さないように、ゆっくりと手に触れたそれを見えるところまで持ってくる。

 それはチャックの付いた小さな袋だった。テレビで見たことがある。パケと言われる小さな袋。

 その中には──、白い粉が入っていた。

 砂糖のような白い粒が無数に集まった粉だったが、砂糖よりも透明度が高い。

 瞬間的に思い浮かんだのは、違法薬物。

 冷たい氷の結晶のようなそれは、覚醒剤ではないだろうか。もちろん、本物を見たことはない。けれど、目の前の変わり果てた茜と小さな袋、その中身。それだけで、理解してしまった。


「茜ちゃん……」


「──返してッ!!」


 思わず溢れた耕平の声を合図に均衡が崩れる。茜が動き出す。

 驚くほど素早い動きで茜は耕平から小さな袋をひったくった。

 耕平はどうすることもできなかった。渡してはいけないと分かっていながら、なにもできなかった。

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