誘因(三)

 甘い粘り気のある匂いは、バニラのお香の匂いだとあかねが教えてくれた。バニラの匂いにしては少し癖があると耕平こうへいは思ったが、それを口にはしなかった。


「どう? アタシのうちは」


 茜はあまり綺麗に片付いているとは言えない部屋を両手でグルリと仰いでみせた。

 家具らしいものは、シングルサイズのベッドとミニテーブルくらいのものだった。ミニテーブルの上には、化粧品が乱雑に置かれていたり、飲みかけのペットボトルが置かれていたりする。他の物を乗せるスペースはほとんどない。

 ミニテーブルの下には毛の短い四角いグレーのラグマットが敷かれていた。

 部屋は全体的にグレーに統一されていて、パッと見たところではあまり女の子らしくはない。けれど、雑多に散らかった部屋と相まって茜にはよく似合っているような気がした。


「なんていうか、茜ちゃんらしいね」


「それって褒めてる?」


「どう受け取ってもらってもかまわないよ」


 耕平がふざけ半分に言うと茜はニヤリと笑って、「ははぁ〜ん」としたり顔を浮かべる。


「耕平、さては女の子の部屋に来るの、初めてだな?」


 直前の会話とどういう関係があるのか分からないが、図星だった。

 かといって、別に耕平はそれを恥ずかしいことだとは思っていない。茜のほうは明らかにからかう雰囲気だが、耕平にはそれに見合う負い目はなかった。


「そうだけど、なんで?」


「いや〜、だってさ『茜ちゃんらしいね』って、そんなとってつけたようなこと言うから。慣れてないなぁって思って。あのね、耕平。こういう時は嘘でもいいから『カワイイ部屋だね』とかって褒めておくものなんだよ。誰もリアルな感想なんかもとめてないんだから」


「そういうもんなの?」


「そういうもんだよ。分かってないなぁ〜、耕平は。なんなら訊かれる前に、入ってすぐにでも褒めなきゃ! アタシだからいいものの、彼女の部屋に行って同じことをしたら最悪フラれるよ?」


 随分大袈裟だと思った。

 茜がやけに饒舌なことに、耕平は少なからず違和感を覚える。少しテンションも高いように思う。自分の部屋だからリラックスしているということなのだろうか。

 

「そんなことでフラれるような子とは付き合わないよ」


 耕平は違和感を覚えながらも、愛想なく応えた。


「そうなの?」


「うん。それに彼女なんかいないし」


「──そっか」


 耕平の言葉に茜は一瞬驚きとも戸惑いともとれる微妙な間を開けてから短く溢すように言った。そして、気を取り直すように声の調子を上げる。


「耕平の好みは、わっかんないからなぁ〜」


「そりゃそうだ。ぼくにも分からないんだから」


 耕平はふざけた調子で肩を上げる。そんな耕平を無視して、茜は「あ、そういえば」と何かを思い出したように手を打った。そして、続ける。


「耕平さ、アタシに告ってきたことあったよね? あのときはビビったよ。あれって何年前だっけ?」


「えっ!? えぇっと……三年……くらいかな? っていうか、やめてよ。恥ずかしいじゃん」


 思いもしない茜の言葉に耕平は分かりやすく狼狽うろたえた。まさか茜の口からその話題が出るとは思わなかった。

 もちろん耕平の方から口にするつもりもなかった。


 忘れるわけがなかった。勝手にタブーだと思っていた。


「別にいいじゃん。昔の話なんだから。そうかぁ、三年かぁ〜」


 いくら耕平が狼狽えようと茜は気にしていないようだった。懐かしそうにしみじみと天井を仰ぎ見る。

 耕平が思っているよりも茜は深刻にとらえていなかったのかもしれない。それは耕平をホッとさせたが、同時に寂しい気持ちにもさせる。

 

 耕平は内心ドキドキしていた。


「耕平さ、アタシなんかの何がよかったの?」


 訊かれた耕平は、茜の方を見ることができなかった。一体どんな顔で耕平を見ているのだろう。そして、耕平はどんな顔で応えればいいのだろう。


 茜の中では耕平の茜に対する思いは過去のものになっているようだが、そんなことはない。現在進行形のものだ。

 今でも耕平は茜のことが好きだった。

 自分でも執拗な男だと思う。客観的に見れば気持ち悪いとすら思う。けれど、茜への思いは消しようがないものだった。


 いざ、何がよかったのか、と訊かれると耕平自身分からなかった。

 見た目が可愛いからか、と言われればたしかに茜の見た目は可愛い。けれど、それが理由か

、と言われればそんなことはない。

 仮に茜の見た目が全く違ったとしても変わらず好きだと思える自信があった。


 では、それならば、性格に惹かれたということになる。

 けれど、耕平が知っている茜の性格はどんなものだろう。

 一番深く関わったのは小学生のときのことだ。高校生のときもそれがすべてだといえるほど深く関わったわけではないが、小学生のときと変わらない性格をしていたとは思う。


 最近レストランに連れて行ってもらったときもそうだ。茜は変わらず茜だった。少なくとも耕平が知る限りはあまり変わらない。

 だが、目が、からっぽな目だけが、引っかかった。変わってしまったのかもしれないと思わせるほど強烈な目だった。


 しかし、変わっていたとしたらどうだというのだろう。からっぽな目以外にもきっと耕平の知らない部分はたくさんあるに違いない。

 それでも茜のことが好きだろうか。

 空想で思いつくことから判断するのは難しかったが、でも、例え茜が耕平の想像を超えるような変化をしていたとしても、やはり変わらず好きなままのような気がした。

 からっぽな目をした茜のことも。少し気持ち悪いとは思うが変わらず好きだった。


 どこが、と問われると分からない。あえて言うなら茜の全てが、茜そのものが丸っと好きだった。


 自ら導き出した結論に恥ずかしさも相まって、困ってしまった耕平は、どこともなく茜の部屋を見回す。

 ふと、大事そうにフレームに入れられた写真が目についた。

 写真には、若い男が一人で写っている。はにかんだ様な笑顔を浮かべた男の頬には、右側にだけ笑窪があった。

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