からっぽ(五)
最初お
「お兄がいたから、アタシは今こうして生きていられるんだよ。嫌なことは全部お兄が引き受けてくれてたから。アタシに降りかかる嫌なことをお兄は全部被ってくれてた。耕平、覚えてない? アタシの九歳の誕生日のときのこと。あのオヤジに体触られて動けなくなってたアタシをお兄は守ってくれた。殴られても殴られても向かっていって……勝てるわけもないのに……」
耕平の脳裏に小学生のときのことが浮かぶ。誕生日会をするから来てほしいと言われてついていった茜の家で、茜の兄に会ったことがある。
茜の兄に会ったのは、その一度きりだった。まともに会話もしなかった。その兄が死んだという。想像がつかなかった。
「お兄はね、いつもアタシのことを守ってくれてたんだ。お兄はアタシのヒーローだったんだよ」
そう言ったきり、茜は口をつぐんだ。
茜の兄と茜とは少し年が離れている。茜が少し年の離れた兄をヒーローだと思うのもおかしなことではない。
「どうして……気が付かなかったんだろうね……」
しばらくの沈黙の後、茜はポツリとそう呟いた。
「お兄さん、いつ亡くなったの?」
耕平は恐る恐る尋ねた。何も尋ねないわけにはいかないような気がしていた。
「先月……」
「そう……なんだ」
自分から尋ねておいて、いざ答えが返ってくると気の利いたことは言えなかった。バカみたいに間の抜けた返事をすることしかできない。
応えたきり茜は何も言わなかった。
耕平も何も言えなかった。
重苦しい空気が二人を包む。暖色系のライトで彩られた店内にあって、耕平と茜の周りだけが凍り付いたように重々しかった。
「食後にコーヒーでもいかがですか? デザートをご用意することもできますが、いかがいたしましょうか」
二人して黙っているとウェイターが音もなく近づいてきて、にこやかに笑った。
耕平は内心ほっとしていた。これ以上、この重苦しい雰囲気に耐えられる自信がなかった。
ウェイターは単に急に険悪になったように見える二人に店の雰囲気を悪くされたくないから声をかけただけなのかもしれない。そうだとしても、ありがたかった。
「耕平は? どうする? もらう?」
恐る恐る顔を上げると茜の目は元通り光を宿していた。その目はもうからっぽではなかった。
「茜ちゃんがもらうなら、ぼくももらおうかな。デザートってなんなんだろう」
耕平は幾分安心して独り言のように問いかける。
ウェイターはにこやかに微笑みながら首を傾げて「ゆずのシャーベットです」と言った。ウェイターの応えに耕平と茜は思わず顔を見合わせる。
「じゃあ、それもお願いします」
二人はほぼ同時にそう応えていた。
二人分のコーヒーとゆずシャーベットはそれほど待たずにやってきた。
白い陶器に青とゴールドの幾何学模様があしらわれた小ぶりなマグカップからコーヒーの香りが立ち上る。マグカップと同じ模様のシャーベットカップには、雪の塊のようなシャーベットが乗せられていた。
「美味しそう」
思わずそう呟く。重々しかった空気は解けていた。
「耕平、覚えてる?」
そう問われるのはレストランに入って二度目だった。
耕平と茜が共有している記憶はたった一ヶ月程度の期間のものだ。そのほとんどを覚えている自信が耕平にはあった。
「ゆずシャーベット……でしょ? 茜ちゃんがうちに来たとき、母さんが出してくれて、二人で食べたよね」
「うん。あのゆずシャーベット、このシャーベットに負けないくらい美味しかったなぁ~」
「そう? ローカルなものだけど市販のものだし、大げさじゃない?」
耕平は内心嬉しく思いながら、茶化すように肩を竦める。祖父母からのお土産を褒められたことによる照れもあった。しかし、茜はいたって真剣だった。
「大げさなんかじゃないよ。一生忘れない味があるんだとしたら、アタシにとってのそれは、あの日耕平の家で食べたゆずシャーベットだもん」
「きっと母さんがそれを聞いたら飛び跳ねて喜ぶよ」
耕平だって同じだった。
一生忘れないほど美味しかったか、と問われたらそうではないかもしれないが、耕平にとっても一生忘れることがない思い出とともにある味だった。
耕平にとって、あの日食べたゆずシャーベットの味は初恋の味だ。そんなゆずシャーベットを茜は一生忘れないほど美味しかったと言う。嬉しくないはずがない。
けれど今それを茜に伝えることはできなかった。
かつて茜は『初恋を叶えてはいけない』と言っていた。理由は母親と父親が初恋同士であり、最初こそ仲睦まじかったものの最終的には最悪の結末を迎えたことによる。
最悪の結末の中には、茜の兄や茜自身が曝されてきた暴力や虐待も含まれている。そして、一緒に、あるいは茜の分まで両親の最悪の結末に振り回されてきた兄が死んでしまったとついさっき茜は打ち明けたばかりだ。
それなのに『ゆずシャーベットは自分にとって初恋の味だ』などと言えるわけがない。せっかく元に戻りつつある雰囲気を壊したくはなかった。
「耕平のママって可愛いかったよね」
茜は目を細めて懐かしむように言った。
「今も可愛いまま?」
「どうだろう。もうすっかりおばさんだし、可愛いとかは思ったことないかなぁ」
「ひどっ。耕平のママは可愛いよ。うちのママとは大違い」
果たしてそうだろうか、と耕平は思う。
耕平の記憶にある茜の母親は、とても綺麗な女性だった。どことなく茜に似ていたはずだ。薄幸な雰囲気を纏っていた茜の母親に、目の前の茜は近づいているように思える。
「そういえば茜ちゃんのお母さんは元気なの?」
「どうだろう。分かんない」
まるで興味がないという返事だった。
「分かんないって、お母さんなのに?」
「うん。だいぶ前に家を出ちゃってそれっきりだから。……あ、お兄が死んじゃったときに会ったっけ」
耕平はしまったと思った。兄の死が再び話題に上がることによって、せっかくよくなりつつあった雰囲気が元に戻ってしまう。
しかし、茜は変わらなかった。
「そんときは元気だったよ。息子が死んだっていうのにあんまり悲しんでないみたいだった。お兄はパパに似てきてたからかもね。信じらんないよ」
「そうなんだ。お父さんの方は? ってもっと分からないか……」
「パパ? パパはずっと前に死んじゃったよ。あんなやつ、どうでもいいけど」
「えっ……?」
思わず息を飲んでしまう。ということは茜は父親と兄を失っていることになる。
にもかかわらず、父親の死を告げる声は、あっさりとしていて、どこか他人事のようだった。ずいぶん昔の出来事だからなのかもしれないが、耕平にはそう思えなかった。そんな風に父親の死を口にするのも無理ないことを耕平は知っている。
「やめよ、やめよ。せっかくのデザートが不味くなるッ!」
茜は不自然なほど明るい声で半ば怒鳴るようにして言った。そして、勢いよく最後の一口を運んだ。
今の今までゆずシャーベットがあった空のカップを見つめる茜の目は、やはりからっぽなままのように耕平には思えてならなかった。
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