からっぽ(四)
「
食事があらかた終わると、不意に
茜ちゃんの近くにいたいと思ったから──、とはストーカーみたいで言えなかった。
「行きたい大学が東京だったから」
当たり障りのないことを応えると茜はつまらなそうに「ふ〜ん」と鼻を鳴らした。
「でも、耕平の家から通えるじゃん。よくママが一人暮らし許してくれたね。ていうか、どの辺に住んでるの?」
耕平が最寄りの駅を教えると茜は、詳しい住所をメッセージで送ってくれと言った。駅の名前を聞いても分からないから、と。
耕平は仕方なく自分の暮らすアパートの住所をメッセージで送る。
受け取った茜は
「住所見てもどこだか分かんない。やっぱりいらなかったかも」
と言って舌を出した。耕平は、どんな嫌がらせだよと少し呆れたが、どこか安心したように見える茜を見ると怒る気にはならなかった。
「ねぇ、耕平は辛いことがあったときってどうしてるの?」
それは、それまで繰り広げられていた、たわいの無い会話と変わらないように思えた。
だから耕平はそんな茜の問いかけを深刻にはとらえなかった。
ハンバーグが乗っていた皿はウェイターによってすでに下げられている。まだゆずの甘酸っぱい香りが仄かに残っていたが、もう消えかけていた。
茜が勧めたハンバーグは掛け値なしに美味しかった。自信を持って勧めるだけのことはある。添えられたゆずの風味もアクセントになっていて、耕平が今まで食べた中で一番美味しいと言っても過言ではない。
「辛いことの内容にもよるかなぁ」
こんなに美味しいものを食べたばかりなのに何故そんなことを訊くんだろうと思いながら、耕平は応える。
実際、辛いことがあったとして、何をするかなんて決めてはいない。問われたからには、と少し考えてみたが、せいぜい好きな音楽を聴いたり映画を観たりするくらいかなと思う程度だ。そんなことすらできないほど辛いことは想像できない。
仮にそれほど辛いことがあったとしたらどうするだろう。考えてもすぐに答えは出そうになかったし、そこまで真剣に考えることもしなかった。
真剣に考えなかったのは、茜のほうもきっと真剣に訊いたわけではないだろうとたかを括っていたからだ。軽く受け流して、すぐに他の話題に移るものだと思っていた。
しかし、そうではなかった。
「じゃあさ、例えばだよ? 例えば、すっごく感謝してる人がいて、その人のおかげでなんとかかろうじて今まで生きてこられてるとして。その人が……その……この世からいなくなっちゃったら……耕平はどうする?」
茜の目は真剣だった。
耕平が思っていたような軽い雑談をしている雰囲気ではなかった。初めて深刻な茜の雰囲気に気がつく。いつからそんな雰囲気だったのか、耕平には思い出せなかった。
茜は節目がちに耕平の胸の辺りに視線を向けている。
ハンバーグを食べているときはこんな風じゃなかったと思う。今の茜の姿は子供のように目を輝かせてハンバーグを口に運んでいた姿とはまるで別人だ。
茜は『例えば』と強調していたが、具体的なだれかを想定して話しているのかもしれないと耕平は思った。でなければ、こんな雰囲気にはならないだろう。
そして、『死んじゃった』と言ったときの口調から、そのだれかは本当に死んでしまったのだろうと想像できる。
耕平は言葉に詰まってしまった。
耕平は幸いなことに今まで身近な人間の死に直面したことはない。近頃では『年をとった』と言うのが口癖のようになった祖父母だって、四人とも健在だ。
今の今まで耕平はだれかの死を真剣に考えたことがなかった。いや、今だって真剣に考えているかは怪しい。
死と言われてもまるで現実味がなかった。
死をリアルに感じたことがあるとすれば、小学一年生の夏に水路で溺れかけたあのときくらいだろうか。あのときは茜が助けてくれたからことなきを得た。
あれがなければ茜と知り合うこともなかっただろう。そういう意味では、怖い体験ではあったが嫌な思い出ではなかった。
「ねぇ、耕平。そんな人が死んじゃったらさ、悲しいのは当然だし、本当に辛いと思う。そんなときって、人はどうしたらいいんだろう。そんなことを一人で考えてると、辛いのはその人が死んだからなんじゃなくて、心の支えを失った自分が可哀想だからなんじゃないかって思えてきて、アタシ、自己嫌悪になるの。そんなときって、どうしたらいいんだろうね」
饒舌で澱みがないのに
表情は最初のうちこそ曇っていたが、だんだんと無表情になっていく。ここではないどこかを見ているような茜の目の奥は、瞳孔が開いているのかと思うほどからっぽだった。
もう疑いようがない。茜は明らかに自分の身に起こったことを話している。耕平は短く吸い込んだ息を吐き出すタイミングを失ってしまっていた。
茜が言うだれかとは誰のことなのだろう。そんな疑問が浮かんだ。
「茜ちゃんの周りのだれかが……死んじゃったの?」
吸い込んだ息と合わせて、考える間もなく思わず口をついていた。無神経だったかもしれない。けれど茜は気にした様子も見せず、無表情のまま小さく頷いた。
茜が肯定したことで、急に怖くなった。だれかの死がリアルな輪郭を持って突然目の前に現れたように思える。からっぽな茜の目を見ることができなくなっていた。
「だれが? ……って訊いちゃってもいいのかな?」
怖いと思うのに尋ねずにはいられなかった。知らないまま放っておく方がずっと怖いような気がした。
恐る恐る尋ねた耕平に茜はまた小さく頷く。二人を包む空気の揺れるのが分かった。
「お
ポツリと告げた声は、小さくか細いのにハッキリと耕平の耳まで届いていた。
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