からっぽ(三)

 人混みを縫うあかねの背中を、耕平こうへいははぼんやりと眺めていた。繋がれたままの手を頼りに茜の後ろをついて行く。


 茜の手はいつまで経っても冷たいままで、耕平の手まで少しずつ冷たくしていく。まるで耕平の体温を吸収しているかのようだった。


 暫く茜に引っ張って連れてこられたのは、人通りのあるメインストリートから少し外れた路地にあるレストランだった。入口は半地下になっていて、隠れ家レストランとでも呼ばれているとしたらピッタリな佇まいだな、と耕平は思う。

 常連なのだろう。茜は慣れた足取りで地下に続く階段を軽快に降りていく。


「ここね、めっちゃ美味しいんだよ。見た目の雰囲気の割にはそこまで高くないし、穴場だね」


 入口ドアの前で振り返った茜は、秘密を打ち明けるようになぜか小声で言って、笑った。


 茜が入口ドアに触れると、チリン──と風鈴のようにささやかな鈴の音が鳴る。店の雰囲気に絶妙にマッチしていた。

 茜の背中越しに見えた店内は、間接照明に照らされていた。


 普段耕平が利用する飲食店と比べても格段に落ち着いている。耕平は妙な気恥ずかしさを感じた。しかし、茜はまるで我が家に帰ってきたとばかりにスッと澱みなく入口の敷居を跨いでいく。


「いらっしゃいませ」


 茜と耕平が店内に入ると、落ち着いた男性の声が出迎えてくれた。見ると糊の効いた白いシャツに、黒いエプロンをした背の高いウェイターがにこやかに微笑んでいた。


「お二人様ですか?」というウェイターの声に茜はやや落ち着いた声で「はい」と応える。

 にこやかな笑みをたたえたウェイターに通されたのは、二人がけのテーブル席だった。


 二人が着席すると、ウェイターはテーブルの真ん中にあるキャンドルに火を灯し、メニューを差し出した。耕平は緊張で身を固くしながらもそれを受け取って、「ありがとうございます」と告げる。ウェイターは小さく会釈をして「決まりましたらお呼びください」と言って二人が着いたテーブルから離れて行った。

 

 耕平はこっそり店内を見まわした。キョロキョロと首を動かすのが恥ずかしい行為だということは分かっている。

 ひとまず店内の様子を伺ったのは、メニューを見るのが少しだけ怖かったせいだ。茜はそこまで高くないと言ったが、不安だった。

 もしかしたら茜は耕平とは全く違った金銭感覚を持っているかもしれない。


 そういえば、茜は大学生ではないと言っていた。それはつまり何かしらの仕事に就いているということだ。それなら耕平と金銭感覚が違って当たり前だ。

 耕平の周りに仕事に就いている友人はいなかった。だから耕平には社会人といわれる人たちの金銭感覚がからっきし分からない。ただ、学生の身分である自分とは大きく違うだろうと想像できるだけだ。


「耕平、何食べたい?」


 耕平の不安をよそに茜は落ち着いた様子で尋ねる。茜も社会人なんだと思うと、店の雰囲気と相まって急に茜のことが大人に思えてくる。

 耕平は気後れしながら首を傾げた。


「なに? 緊張してんの? ここはね、ハンバーグが美味しいよ。アタシはハンバーグにする。ってかハンバーグしか食べたことない」


 そう言う茜は一瞬で大人の雰囲気が薄れ、やっぱり子供っぽかった。大人っぽく見えたり子供っぽく見えたり、茜は少女と大人の女性の間を行ったり来たりしているようだった。


 茜に言われてメニュー表を開くと、手書きでいくつかの料理名が書かれていた。メニューの数はそれほど多くはない。両手で数えて余りが出るほどしか載っていなかった。

 耕平が普段利用するファミリーレストランとはまるで違う。


 茜が勧めたハンバーグは、メニューの一番最初に写真付きで大きな文字で書かれており、さらに『オススメ』とまで書かれていた。


「俺もハンバーグにするよ」


 言ってしまってから値段を見るのを忘れたことに気がつく。ふと目を落とすと千三百円と書かれていた。

 茜の言うとおり驚くほど高いというわけではなくてホッとする。


 注文が決まると茜が慣れた様子でウェイターを呼んだ。ウェイターは無駄のない動きで二人のテーブルにやってくると、やはりにこやかに微笑んだ。


「ハンバーグを二つください」


 茜が注文するとウェイターは「かしこまりました」と応えて厨房に入っていく。

 その一連の動きの全てが洗練されていて、耕平は思わず見惚みとれてしまった。


 少しすると二人分のハンバーグが運ばれてきた。大人の拳より少し小さいくらいの塊にデミグラスソースがかかっている。

 一見すると珍しいところのないシンプルなハンバーグだが、一つ他では見たことがないものが添えられている。それはゆずだった。唐揚げに添えられたレモンのように、八つ切りにされたゆずはデミグラスソースの匂いに混じって甘酸っぱい香りを放っていた。


「さっ、食べよっかッ! アタシが勧めるぐらいだから、マジで美味しいよ」


 ウェイターがテーブルから離れると茜はナイフとフォークを両手に握りしめて、頬に笑窪を浮かべながら言った。

 耕平は、やっぱり子供っぽいなと思った。

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