第三章 レストラン
からっぽ(一)
『
カフェを出て行く茜をただ見ているしかなかったあの日以来、茜には一度も会わなかった。会えなかった。
あの後、茜の方から連絡してくることはなかった。
耕平の方からなにかメッセージを送ろうと思わないではなかったが、去り際に見せた茜の雰囲気がそれを
そんな風に二の足を踏んでいるうちに、連絡するための心理的なハードルが上がっていった。
茜との関係が途絶えたのと同じく、葵との関係もそれっきりになっていた。
葵はあの日以来、学校に来ることはなくなってしまった。そして、数週間後、退学するという知らせが担任の教師から告げられた。
それだけだった。葵から耕平になにかを言ってくることはなかったし、耕平からもなにも言わなかった。
高校を辞めた葵がどうしているのかを、耕平は全く知らない。なんとなく、あの病的に青白く、周りを威嚇するように首元までタトゥーを入れた男、
茜は翔也にDV癖があると言っていたが、だからといって耕平がなにかを感じることはなかった。茜の言ったように、葵のために暴力をやめさせようとか、そんな風にはカケラも思わない。
茜はそんな耕平に『変わっちゃったね』と言っていた。
自分は変わってしまったのだろうか。変わってしまったから、茜は冷たい雰囲気をまとって耕平の前から再び姿を消してしまったのだろうか。耕平には分からなかった。
この三年間で茜のことを忘れたことはなかった。忘れることができなかったと言った方が正しいかもしれない。三年間いつも耕平の胸には茜のことがあった。
葵と別れてから、耕平は誰とも付き合っていない。
耕平に好意を抱く女子はいないでもなかったし、中には思いを伝えてくる女子もいた。けれど、耕平はその全てを断った。もう自分の気持ちに嘘をついて誰かと付き合うのはごめんだった。
耕平は茜がメッセージで言うとおり、冴えないつまらない生活を送っていた。彼女も作らず、深い付き合いの友達もほとんどいない。人付き合いというものに疲れてしまっていた。
いや、疲れたというのは言い訳で、ただ単に拗ねていただけなのかもしれない。
誰と過ごしても茜と一緒に過ごす時間と比べたらつまらないものに思えた。
高校生活は自然と勉強ばかりして過ごすことになった。そのおかげでそれなりに偏差値の高い大学に現役で合格することができた。
けれど、大学生活もあまり楽しいとは思えなかった。
暇つぶしにバイトを始めてみたりもした。そこで何人か親しい人間ができたにはできたが、深いところまで踏み込む関係にはまだなれていない。
これからなれるかも分からない。
耕平は三年ぶりに受け取った茜からのメッセージをしばし眺めていた。茜は三年という年月を久しぶりという言葉で処理してしまっている。
三年という月日を感じさせないメッセージは『久しぶり』という言葉がなければ、久しぶりに届いたものだとは思えない。
どう返信するか悩んだ。どうしても最後に見た茜の冷たい顔が浮かぶ。メッセージの文面を見れば、なにかの間違いだったのではないかとも思えるが、耕平の記憶に焼きついた茜の顔は決して間違いではない。
茜はどういうつもりでメッセージを送ってきたのだろうか。まさか、最後のやりとりを忘れてしまったのではあるまい。本当に忘れたのなら、三年も間は空かないように思う。
なら、どうして──。
いくら考えてみても答えは出そうもなかった。どういう事情や理由があっても、茜からのメッセージは嬉しかった。考えることに疲れた耕平の頭は、もうそれだけで十分だと結論を出そうとしていた。
もう半ば諦めていたが、茜に会えるかもしれない。そう思うと、つまらないと思っていた日常が急に華やいだように思える。錯覚かもしれないがそう思えるのだ。
茜は今も耕平が地元を離れていないと思っているのだろう。連絡を取り合っていないのだから当然なのかもしれない。
しかし、耕平は大学進学を機に、東京で一人暮らしを始めていた。
進学にあたっては、あえて東京の大学を選んだ。地元のA市から通うこともできたが、両親に無理を言って一人暮らしをさせてもらったのは、ひとえに茜の暮らす東京に出るためだ。
もっとも、茜が耕平の現況を知らないのと同じように、耕平も茜の現況を知らない。茜の方がこの三年の間で東京を離れてしまっている可能性は十分にあった。
けれど、耕平は茜が東京を離れることはないだろうと確信していた。
どんな風に返信をしよう。はやる気持ちとは裏腹に、スマートフォンを握る手の動きは鈍かった。伝えたいことも訊きたいこともたくさんあるのに、少し文章を打ち込んでは、消す。そんなことを何度か繰り返す。アレコレと考えた結果、耕平は短く
『メッセージありがとう。ぼくも今、東京で暮らしてるんだよ』
とだけ打ち込んで送信した。
そんな面白みもないメッセージに返信があったのは、しばらく経ってからのことだった。
耕平が東京で暮らしていると知っても、茜はさほど驚かなかった。何度か続いたやり取りの中で『そうか。普通に学校に行ってたら大学生なんだね』という短い文章で処理されてしまった。
耕平は少しだけがっかりした。まさか、茜が喜んでくれるとまでは思わなかったが、何かしらの歓迎をしてくれるのではないかと思っていた。
メッセージから、茜が大学に通っていないことはすぐに分かった。それと同時に茜の周りに大学生がいないのであろうことも想像がついた。
耕平の高校の同級生は、そのほとんどが大学へ進学している。進学していない同級生もすべてが進学を目指した浪人生だ。
バイト先だって、同じ年頃の人はすべて大学生だし、社員として働く人も皆大学を出ていた。だから耕平は大学に進学することは当たり前のことだと思っていた。
茜は耕平の当たり前の外側にいた。
ふいに『住む世界が違う』と言った茜の言葉を思い出す。三年間で何度も思い出した言葉だ。それは、拒絶の言葉のように聞こえたが、諦めの言葉だったのだろうと耕平は思うようになっていた。
同じ東京に住むことができたのに、三年前よりもその言葉がリアルに感じられ、茜との距離が開いてしまったように思える。
そう思うとあれほど望んでいた茜と会うことが怖くなった。
『ところで、いいところってどこに連れて行ってくれるの?』
耕平は、極力茜の言葉を気にしないように努めた。
住む世界が違うからなんだというのだ。小学生のときだって高校生のときだって、会えば楽しかったし、会っているときに茜との距離を感じたことなどなかった。そう思い込もうとした。
『いいところはいいところだよ。とりあえず次の日曜日の十八時にここまで来て』
そんなメッセージとともにURLが添付されている。開いてみると、立ち上がった地図アプリは、繁華街のど真ん中を示していた。
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