別れ(三)
「どうして……? どうしてやめた方が……いいの……?」
耕平が思いを告げた瞬間に変わってしまった空気のせいだった。
さっきまで喧しいと思っていたカフェの喧騒が、今は耳に入らなくなっていた。茜の応えだけを捉えることができるように余計なものを遮断している。そんな気になっている。
「どうしてって? アタシはもう普通じゃないから。耕平とは住む世界が違うんだよ」
茜は相変わらず表情の消えた顔で、唇だけを動かしてそう応えた。
「住む世界が違うって言うけど、東京とここはそんなに変わらないよ。それに茜ちゃんは茜ちゃんだよ」
住む世界が違うというのが、東京だとかA市だとかそういった物理的な意味ではないのは、耕平にもなんとなく分かっている。
耕平に絡んできた金髪の男たちやバーで見かけた茜の友人たちを思い返せばなんとなくの察しはつく。けれど、それはあくまでも茜を取り巻く環境であって、茜自身とは別の問題だと思えた。
「耕平はアタシのことを知らない。アタシが知らせないようにしてるから。耕平には知られたくないから。耕平はアタシと『普通』を繋いでくれる唯一の存在だから」
「それなら教えてよ。茜ちゃんのこと。茜ちゃんのこと、知りたいよ」
「ダメ。教えられない」
茜は表情を変えずにゆっくりと首を横に振った。
「どうしてっ!?」
耕平は珍しく感情的になっていた。久しぶりに大きな声を出したかもしれない。
近くにいた何人かが驚いた顔で耕平の方を見たが、すぐにまた元に戻った。
「耕平には教えられない。普通に暮らしてて、ちゃんとしたママとパパがいて、毎日が平穏で。そういう暮らしをしている耕平には教えられない。教えたら耕平のそういう普通を壊しちゃうかもしれないから」
そこで茜はふっと息を吐く。それと同時に凍りついたようだった空気が溶けていく。
不意に見せた微笑みが空気が溶ける合図のようだった。
「アタシね、耕平をバーに連れて行ったこと、後悔してるんだ。それに……あの日。小学生のとき。水路に落ちた耕平のこと。最初から……ううん。それは違うね」
茜は言いかけた言葉を自ら否定した。
「耕平と知り合えたことは、なかったことにしたくない」
「茜……ちゃん……?」
耕平には茜が何を言っているのか分からなかった。分からないままなのに茜の言葉は続いていく。
「耕平はアタシのことが好きなの?」
「そうだよっ! ぼくは茜ちゃんのことが好きだよ。小学生のときからずっと。あのときは子供すぎて分からなかったけど、今ならはっきり言える。ぼくは茜ちゃんが好きだって」
「耕平は今も子供だよ」
茜は呟くように言った。そして、ふるふると首を振る。顔にはどこか寂しそうな表情が浮かんでいた。
「そんなことないよ。ぼくはもう高校生だし、もう子供じゃない」
「……うん。でも、耕平の知らない世界があるんだよ。アタシは耕平の知らない世界に生きてるの。アタシが会いにこないと耕平は普段アタシが何処にいるのか知らないでしょ?」
そう言われてハッとした。たしかに定時連絡のように茜からメッセージが送られてきて、誘われて出ていけば当たり前のように茜に会うことができていたが、いざ耕平の方から茜に会おうと思ってもできないかもしれない。
耕平は茜がどこで暮らしているのかを知らない。なんとなく東京なのだろうという当てがある程度だ。
辛うじて茜が高校に通っているらしいことは分かるが、実のところどこの高校なのかは知らなかった。
「何処に行けば会えるの?」
「教えない。耕平には教えない。それに……」
「それに?」
「それに、初恋は叶えちゃダメって言ったでしょ?」
そう言って微笑んだ茜は、薄っすら涙を浮かべていた。
沈黙が二人を包んだ。なにか言わなければと思っていると、茜は「さよならだね」と言って席を立った。
「ちょっと待ってよ、茜ちゃん。さよならって……」
不安になった耕平は慌てて立ち上がった。そして茜の肩を掴む。茜の肩は驚くほど細く頼りなかった。
「いたっ……」
茜の悲鳴にも似た声に耕平は慌てて手を離す。
「あっ……。ごめん……」
それほど強く掴んだつもりはなかったが、思いの外茜は痛そうだった。
「茜ちゃん……。さよならって、どういうこと? もう、会えないの?」
耕平の問いかけに茜は黙ったままだった。
「ねぇ、茜ちゃん。応えてよ。茜ちゃん。ぼくはまた茜ちゃんに会いたいよ」
側からみれば完全に修羅場だ。周囲から好奇の目が向けられる。けれど耕平は全く気にならなかった。気にする余裕がなかった。
「ねぇ、茜ちゃん!! なにか応えてよ! ねえ、何処に行けば会えるの? 今度はぼくが茜ちゃんに会いにいくから。ちゃんと茜ちゃんのこと知りたいよ。ぼくの知らない茜ちゃんには何処で会えるの?」
「…………東京」
痺れを切らしたように茜の声が短く告げる。それは耕平も知っていることだった。
茜はそれだけ告げるとそのままカフェを出て行ってしまった。
耕平は、引き留めることも後を追うこともできず、ただ茫然とその姿を見ていることしかできなかった。
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