別れ(二)

 狭く小さなカフェに揃った四人の中で、一番動揺していたのはあかねだった。

 自分で蒔いた種を自分で刈り取って、予想どおりの果実が現れた。どれをとっても茜の予想どおりだったにも関わらず、茜の動揺は誰よりも大きかった。


「あんたね……」


 あおいとヨリを戻したと告げた翔也しょうやに対してなにかを言おうとして、口籠もってしまう。翔也の方は、なぜ茜がそれほど動揺しているのか分からないといった様子だった。

 葵の顔は無表情に戻っている。焦点の合わない目で茜のことを見下ろしていた。


「ごめん。もういいよ。急に呼び出したのに、来てくれてありがとう」


 しばらくして、茜は突然話を終わらせた。

 翔也はより一層わけが分からないといった顔をしていたが、用があると言って呼び出した本人がもう終わりだと言っているのだから、残る必要もないと思ったのだろう。すぐに小さく頷くと葵を伴ってカフェから出て行った。

 葵は一度も耕平と茜の方を振り返らなかった。葵は耕平と出かけた時と同じカバンを背負っていた。しかし、そこに紅葉のキーホルダーはもうない。


 茜は二人が出て行くのを最後まで見届けると頭を抱えた。


「全部アタシのせいだ。耕平、ごめん。ほんっとうに、ごめん!」


 テーブルに乗ったカップがガチャンと不快な音を立てる。

 二人が出て行った方をぼんやりと眺めていた耕平は、音に驚いて茜に向き直った。茜は、テーブルに頭を擦り付けるようにして土下座に似たポーズを取っていた。


「ちょっと……。なにしてんの? 茜ちゃんが謝ることじゃないよ。これは葵とぼくの問題だし、それになんて言っていいか……。最低かもしれないけど、そこまでショックを受けてないんだよね」


 むしろ安心している、とまでは言わなかった。

 翔也と一緒にいる葵を目の当たりにして、耕平は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 耕平は翔也のように葵のことを受け止めたことなどなかった。翔也の肩に頭を乗せたときの葵の表情は、耕平の前では見せたことのないものだった。全身で、心まで翔也に寄りかかっているように見えた。

 自分にはあそこまでしてやれない。してやろうという気が起きない。してあげたいと思うとするならば、その相手は……。


 二人の様子を見たとき、耕平は自分が場違いな存在であるように思えてならなかった。一応はまだ葵の彼氏であるはずなのに、完全な部外者のように思えた。


「無理しなくてもいいんだよ。別にカッコつける必要もないし。カッコ悪いとも思わないよ。彼女が他の男とイチャイチャしてるのを見たら、誰だって落ち込むんだから」


 そうじゃない、と思ったが、どう伝えていいかが分からない。結局のところ、耕平には葵に対する気持ちがそこまでなかったという事になるのだろうが、それをそのまま伝えるのは抵抗があった。

 この場にもういない葵に対する後ろめたさも多少はあったが、なによりも茜の評価が気掛かりだった。茜に最低な奴だと思われたくない。


「本当、余計なことしちゃったなぁ……。アタシのせいで耕平と葵ちゃんの仲が拗れて、こんな風になってると思うと申し訳ないよ。必要ならアタシからいくらでも説明するから。特に翔也の方は私が言えば──」


「大丈夫だよ」


 捲し立てるようだった茜は、耕平の声を聞いてハッとしたように顔を上げる。耕平の声は落ち着いていた。


「茜ちゃんは本当に気にしなくて大丈夫。茜ちゃんとは関係なく、ぼくたちはきっと近いうちにこうなってたんだよ。そんな予感はあったからさ。だから気にしないで」


 予感があったというのはまるっきり嘘だが、今こうなってみて振り返ると、茜のことがなくても遠くない未来、葵とは別れていたんだろうなと思う。

 理由は耕平にあった。耕平は遅かれ早かれきっと葵の気持ちには応えきれなくなっていただろう。


 いや、翔也との様子を見るに、葵の方だって耕平に対して気持ちがあったのかどうか疑わしい。案外、翔也と別れた寂しさを埋めるために、たまたま声をかけた耕平のことが好きだと自分に言い聞かせていただけなのではないだろうか。

 そんな都合のいい考えさえ浮かぶ。いずれにしても、茜が気にすることじゃないというのは本心だった。


「本当、大丈夫だから。ぼくの方こそ、ごめんね。なんか変な事に巻き込んじゃって」


「それは全然いいんだけど……。耕平が大丈夫って言うなら、アタシはこれ以上なにか言えた立場じゃないし……。でも、あの葵って子。大丈夫かな?」


「葵が? どうして?」


「いや……その……翔也ってさ、DV気質って言うのかな? そういうの、あるみたいでさ。俺ってメンヘラだからって翔也本人が言ってたんだけど……」


「そうなんだ」


「耕平……。心配になったりしないの?」


 何かを探るような茜の目が耕平をとらえる。そこで自分の反応があまりに素っ気なかったことに気が付いた。


「あ、いや……。もちろん心配だよ。葵、そんなこと一言も言ってなかったから。その……元カレに暴力振るわれてたとかそういうこと。それにあの翔也ってやつ、そんなことするようには見えなかったから。なんていうか現実感がなくて……」


 取り繕うように口を開いたものの、喋れば喋るほど言い訳がましくなった。


「──耕平。変わっちゃったね。アタシが知ってる耕平は、彼女が殴られてるかもしれないって分かったら、怒って、場合によってはその相手にやめさせるって乗り込んでいくようなやつだったのに。覚えてる? アタシがとき。あのとき、耕平はちっこいくせにアタシとパパの間で目いっぱい手を広げて立ち塞がってくれたの。アタシより小さいのに大きく見えたんだよ?」


 しばらくじっと耕平を見つめてから、茜は言った。声には落胆の色が混じっていた。

 もちろん耕平だって覚えている。忘れるわけがない。


「それは……」


「それは?」


 暴力的な大人に小さな体で向かっていく。今思えば無謀なことだった。

 今よりもずっと対格差があった。その分恐怖心も大きかった。それでも立ち向かうことができたのは、守るべき対象が茜だったからだ。けれどそれを口することができず言葉に詰まってしまう。


 なにも口にすることができないまま、耕平は茜と見つめ合った。


「耕平。変わっちゃ、いやだよ。あんただけには変わってほしくない。勝手だけどさ、あんただけはアタシと『普通』を繋いでおいてほしい」


 茜の言葉は祈るようだった。かき混ぜられたように耕平の頭の中は真っ白になっていく。


「ぼくは……茜ちゃんのためならなんでもできるよ。茜ちゃんのことが、好きだから」


 真っ白な頭で思わずそう告げていた。口にしてから、言ってしまったと自覚する。けれど、焦りや後悔はなかった。


「──アタシは、やめておいた方がいいよ」


 空気が変わるのが分かった。茜の顔から表情が消えて行く。スッと消えた表情の下には、何もない真っ暗闇が広がっているように耕平には感じられた。

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