変化(二)

 スマートフォンを手に取り、耕平こうへいがまず開いたのは、あかねからのメッセージだった。

 あおいのメッセージを後回しにしたのは、別れ際が別れ際だっただけに開くのが躊躇われたからなのだが、理由はそれだけではなかった。ほとんど無意識的に、耕平は葵のメッセージよりも茜のメッセージの内容が気になり、優先していた。


『耕平。今日は突然ごめんね。いきなりだったから、迷惑だったよね。懐かしい街並みを見たらノスタルジックな感情になるかと思ったけど全然だったよ。A市変わりすぎ! でも耕平ママは変わってないね。耕平ママに会えてノスタルジックな気持ちになれたから、よしとする』


 茜のメッセージは去り際に話した初恋の話題には触れていなかった。

 茜が去り際に見せた何とも言えない表情を思い出す。初恋の人と結ばれたいとは思わないと言った茜の顔は、奇妙に歪んでいた。気のせいではないはずだ。

 もしかしたら、茜は嘘を吐いているのかもしれない。そんな希望的観測が耕平の胸に湧き上がる。

 

 一方で、茜が告げた茜の両親のことも耕平の胸には強く残っていた。

 初恋を叶えた結果、憎しみ合うまでに変わってしまった茜の両親。幼い頃に耕平が見た茜の父親は、一見すると穏やかそうでしっかりした大人の男性に思えた。

 それと同時にどうしても思い出してしまうのは傷だらけになった幼い茜の姿だ。幼い茜を目を覆いたくなるほど傷だらけにしたのは、他でもないその父親なのだ。

 茜によれば、茜の父親は茜の母親を憎んでいたという。憎んでいたから、その子供である茜に暴力をふるったのだろうか。自分の子供でもあるはずの茜に。

 

 もし、耕平が茜と結ばれたとしたら、耕平は茜を憎むだろうか。想像できなかった。

 そもそも、耕平は誰かを強く憎んだことがない。馬が合わない人間はそれなりにいたが、そういう人間とは極力接点を持たないようにしていたし、それが合理的だと考えていた。

 けれど、初恋の相手と結ばれるというのは、これ以上ない接点の創設だ。そのうえで、もしその相手を憎むようなことがあったら、耕平も茜の父親と同じように暴力をふるうのだろうか。いくら想像を巡らせても、分からなかった。

 

 ──と、そこまで考えて、耕平は自分が茜と結ばれることを前提に想像を巡らせていることに気が付いた。耕平の無意識は、あまりにも自然に茜への思いを肯定している。


「何を考えてるんだ。ぼくは…………」


 自分の中にある気持ちをごまかすように声に出す。けれど、一度想像してしまったものは容易に消えてくれそうもなかった。


「ぼくは、茜ちゃんのことが好きなのか……?」


 今度は、反対に自分の気持ちを肯定するように自問してみる。そうなのかもしれないな、と耕平は思い始めていた。

 茜と久しぶりに再会して以来、耕平は茜のことばかり考えている。茜はメッセージで迷惑だっただろうと謝っているが、少しも迷惑なんかじゃなかった。むしろ嬉しかったくらいだ。

 葵のことを思えば拭えない罪悪感があったが、沸き起こってしまった感情を否定することはできなかった。

 

 そういえば、葵からもメッセージが来ていた。メッセージはなんだったのだろう。ようやく葵のことを思い出してメッセージを開く。


『こうちゃん。さっきはごめんね。突然、約束もしてないのに家の近くまで行っちゃって。こうちゃんの地元がどんなところか知りたかったから……。それから、あんな風に空気を悪くしてごめん。ねぇ、、こうちゃん。葵たち少し距離を置いたほうがいいと思う。だからしばらく一緒に帰ったりするのはやめよう。ごめんね。わがままで』


 葵のメッセージは最初こそ茜と同じように突然の訪問を詫びるものだった。しかし、葵は茜と違って最後まで謝り続けていた。

 

 耕平は、距離を置くことに何の意味があるのだろうと思った。けれど、それを尋ねようとは思わない。葵がそうしたいと言っているのだから、その理由やそうする意味は大した問題ではないと考えた。


『分かった。葵がそう言うならそうしよう』


 耕平は、葵のメッセージに短く返信する。送信すると同時にすぐに既読になった。葵はメッセージアプリを立ち上げっぱなしにしているのかもしれない。


『こうちゃんはそれでいいの?』


 数秒後に短いメッセージが送られてくる。『それでいいの?』というのはどういう意味だろう。耕平が良いか悪いかに関係なく葵が言い出したのだから、最終的には葵が決めればいいのにと耕平は思った。しかし、それをそのまま返信するのはためらわれる。流石にまずいことくらい分かる。


『一緒に帰ったりできないのは寂しいけど葵に無理させるのはもっと嫌だから。葵の気が済んだらまた一緒に帰ろうよ』


 精一杯、譲歩し葵を思いやったつもりだった。けれど、続く葵からの返信は耕平の予想しないものだった。


『こうちゃんは葵のことなんかどうでもいいんだね。気持ち冷めちゃった? それとも気持ちなんか元からなかったかな?』


 耕平は葵が距離を置きたいと言い出したから、それを受け入れた。距離を置くのでかまわないかと訊かれたから、葵の気持ちを尊重すると応えた。それがなぜ気持ちが冷めただとか、どうでもいいだとか、そういう話になるのだろう。


『そんなことはないよ。できれば葵と一緒に帰りたい。でも、葵がそれは嫌なんでしょ?』


 理解できない気持ちを抑えて、なるべく当たり障りのないようにメッセージを送る。また、すぐに葵からの返信があった。


『もういい』


 それだけだった。それっきり、葵からのメッセージはパタリと止まってしまった。返信しても既読にならない。寝てしまったのかもしれない、などと都合のいい解釈が浮かぶが、そんなわけがないことは分かっている。

 電話をかけようか迷った。しかし、考えてみれば、電話をかけたところで耕平の方から何か伝えるようなことはない。耕平には葵が一人で暴走しているように思えてならなかった。そして、そんな風に思うとだんだんとうんざりしてくる。


 耕平は、めんどくさくなって考えることを放棄した。そのままメッセージアプリを閉じる。そしてスマートフォンをベッドの上に放り投げると、自分もベッドに身体を沈めた。


 母親が天日干ししてくれたのだろう。布団から香る冬になりかけの太陽の匂いが、耕平の気持ちとはかけ離れていて居心地の悪さを感じた。

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