変化(一)

 ついさっきまであかねが座っていた車止めに、今はあおいが座っている。耕平こうへいはなんとも言えない居心地の悪さを感じていた。

 葵は黙っている。茜がそうしていたのと同じように、何もないところを真っ直ぐに見つめていていた。

 

 ふと、葵の腕に巻かれた包帯が目についた。似ても似つかない茜と葵が、まるで包帯だけをそのままに入れ替わってしまったような錯覚を覚える。二人の共通点は、腕に巻かれた包帯だけだ。


「急に訪ねてきたんだよ」


 耕平は、重い沈黙を破ろうと口を開いた。どうしても言い訳のようになってしまう。横目で見て葵の反応を伺う。

 嘘は吐いていない。事実、茜は突然耕平の家にやってきたのだ。呼んでもいないのに。やましいことはない。そのはずなのに、葵の横顔をしっかりと見ることができなかった。


「──そう」


 葵の口から短く白い息が漏れる。耕平の言ったことを信じていないわけではないのだろうが、自分の知らないところで耕平が茜と会っていたという事実を飲み込めない。

 突然やってきたのなら仕方ないではないか。やっかいばらいでもするかのように追い払っていればそれでよかったのかと言えばそんなことはない。頭ではわかっていても気持ちとの折り合いがつかなかった。


「茜ちゃんは、昔からそういうところあったからさ。結構思い付きで行動するんだよ。俺もびっくりで──」


「そんなの知らないよっ!」


 耕平の言葉を遮るように葵は半ば叫んぶように言い捨てた。普段はどちらかというと物静かな葵の大きな声に耕平は面食らって、冷たい空気とともに続く言葉を飲み込む。

 葵は相変わらず耕平の方を見ることなく、何もない空間を真っ直ぐ睨んでいた。

 

 耕平はスウッと音をたてないように深呼吸をする。ゆっくりと白い息を吐くと、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 葵は怒っている、と耕平は理解した。いったい何を怒っているのだろう。

 いや、怒っているとしたら茜のこと以外にないのだが、耕平が茜と会ったのは不可抗力だ。そんな不可抗力に対して怒っているのだとしたら理不尽だし、耕平の知る葵はそんな理不尽な怒りを無遠慮にぶつけてくるようなタイプではなかった。


 それに、そもそも耕平が茜と会うこと自体、それほど怒られるようなことではない。葵以外の女の子と会って話をすることは、葵にしてみれば気に食わないことかもしれないが、だからといって一切の女の子との接触を断つことなどできない。

 葵だってそれは理解しているはずだ。理解した上でなりふり構わず怒っているのかもしれないが、それは耕平の知る葵の姿ではないように思えた。


「──ごめん」


 それでも謝っておくのが得策だと思った。しかし、葵の反応は変わらなかった。


「なにが?」


「いや、なんか……怒ってるみたいだから……」


「別に。怒ってないよ」


「いや、でも……。普段そんな風に言わないでしょ?」


「…………」


 葵が黙ってしまうと耕平も黙るよりほかない。葵は黙ってしまったが、立ち去る様子はなかった。


「寒くない?」


 耕平が尋ねても葵は黙ったままだった。


「とりあえず、ぼくのうち。行く?」


 今この場から離れれば何かが変わるかもしれない。そう考えて思い切って言うと、葵はふぅっと深い息を吐いた。そして


「──行かない。ごめん、今日はもう帰るね」


 と言って立ち上がった。葵が何か言いたいことを抱えたままなのは耕平にも分かったが、無理に聞き出す気にはなれなかった。


「分かった。じゃあ送っていくよ」


「大丈夫。一人で帰れるから」


 せめてものつもりで申し出たが、それも葵は断った。絶対に首を縦に振らない頑固さが垣間見える。そうまでされてしまうと耕平は引かざるを得なかった。

 

 葵は「それじゃ」と言って、立ち上がる。葵は『また明日』とも『学校でね』とも言わなかった。

 去っていく葵のカバンに紅葉のキーホルダーが揺れている。耕平のカバンにも同じものが付いていた。そのカバンは今、耕平の部屋にある。

 耕平は振り向くことなく去っていく葵のことをただ見つめていることしかできなかった。葵の背中が見えなくなるまでその場から動くことができなかった。


 それほど長い時間ではないはずだが、ひどく長く感じられた。早く行ってしまえという気持ちと、振り返ってこちらに戻ってきてほしいという気持ちがない交ぜになる。

 葵は、ずっと向こうの方で角を曲がって、そして見えなくなった。とうとう一度も振り返らなかった。


 家に帰ると母親が出迎えてくれた。いつもは「おかえり」という挨拶さえ鬱陶しく思えたが、この日ばかりはありがたかった。


「お風呂とご飯どっち先にする?」


 という母親の言葉に耕平は「風呂」と短く無愛想に応える。そんな耕平にも母親は、「寒かったもんね。沸いてるから入っちゃいな」と言ってくれる。

 ついさっき葵から冷たい態度を取られたからか、母親の対応はなにか貴重なもののように思えた。


 母親の沸かしてくれていた風呂に身体を沈めると、意図せず大きなため息が出た。自分は何をしているのだろう。そんな漠然とした思いが脳裏に浮かぶ。耕平は一度頭の先まで湯船に浸かる。


 湯船から顔を出すと、葵を怒らせてしまったのだと改めて思った。

 その原因はきっと茜だ。耕平が望んで茜と会ったわけではないのだが、そんなことは関係なくきっと葵にとっては堪らなく嫌なことだったのだろう。そんなことぐらいでは怒らないだろうというのは、耕平の勝手な憶測だ。


 どうすれば許してもらえるだろうか。見当もつかなかった。許してもらいたいのかも、もはや分からなかった。冷静になり始めると、どうでもよくなっている自分がいることに気がつく。


 風呂から出ると母親が用意してくれた柔らかいバスタオルで身体の水滴を拭う。ふとスマートフォンを手に取ると、メッセージの受信を告げるバナーが表示されていた。

 見るとメッセージは二件。茜と葵からのものだった。

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