罪悪感(四)

「彼女さんじゃないの? 大丈夫?」


「大丈夫。あとでかけなおせばいいから」


 耕平が応えると、茜は納得したのかうなずいて「ラブラブだぁ」とつぶやくように言った。その声がどこか寂しそうに思えるのは気のせいだろうか。


「茜ちゃんだって彼氏、いるじゃん」


 言いながら、バーでみたドレッドヘアの男のことを思い浮かべる。耕平の日常にはまずいない容姿をした男と、今耕平の隣に座る茜が仲睦まじく歩く姿を想像したくはなかった。


「まぁね。あいつ、あぁ見えて界隈では有名なDJなんだよ。あの店でバーテンやりながらDJもやってんの。カノジョのアタシが言うのも変だけど、結構モテるみたい。見た目のとおり悪いこともしてるみたいだけど……。でも、うん。大丈夫だよ」


 どこか言い聞かせるような茜の言葉だった。耕平の言葉と微妙にかみ合っていないように思える。


「有名なDJか……。ぼくは知らないなぁ。町ですれ違ったら絶対目を合わせないよ」


「あはは。そうかもね」


 また、ブーッ、ブーッと耕平のスマートフォンが鳴動する。今度は茜に指摘されるまでもなく耕平も気が付いた。ポケットから取り出して画面を見ると、また葵からだった。


「出てあげたら?」


「いや、大丈夫」


 耕平はそう言って今度は電源を落とす。自分でもどうしてそこまでするのか分からなかったが、葵からの着信が疎ましかった。


「そう? まぁ、二人のことはアタシには分からないからね。耕平がそう言うなら大丈夫か。ねぇ、その彼女さんて耕平の初恋だったりするの?」


「えっ!?」


 茜は唐突にそう尋ねた。いつか、葵に「こーちゃんの初恋っていつだったの?」と訊かれたことを思い出す。


「だから、その彼女は耕平の初恋なのかなって」


「どうして?」


「ん? 特に理由はない……けど。でもさぁ、初恋なんだったら、やめておいたほうがいいかな……なんて。──いやいやいや、さすがにおせっかいがすぎたわ。ごめんッ! 忘れて」


「そこまで言われて忘れるのはさすがに無理だよ。ていうか、なんで初恋だったらやめておいたほうがいいの?」


「う~ん……初恋はね、叶えたらダメなんだよ。絶対にうまくいかないから」


 耕平はかつて茜が同じようなことを言っていたのを思い出した。そのときには尋ねなかった理由を尋ねる。


「どうして? どうして初恋を叶えたらダメなの?」


 茜は、耕平のほうへと向けていた顔を動かして真正面を見つめた。そこには何もない。

 茜の口から吐き出される呼気がわずかに白くなっている。思っていたよりも気温が下がっているのかもしれない。

 

 茜はしばらく黙っていた。耕平は茜の言葉を辛抱強く待つ。なにかを口にすれば、茜が耕平の問いに応えることはなくなってしまうように思えた。

 どこか祈るような思いだった。茜は勘違いしているようだが、耕平の初恋の相手は茜だ。初恋の相手から『初恋を叶えてはいけない』と言われるのはやるせなかった。


 茜が信じる迷信じみたものの根拠を知れば、茜の言葉を覆すことができるのではないかと耕平は思っていた。覆した先になにがあるのかまでは考えていない。どうあって欲しいのかも分からない。


「──初恋はね、叶えたら不幸になる。お互い初恋同士なんてのは一番最悪」


「不幸に……? それってどういう……?」


「うん。叶えるとね、その初恋の相手のことを嫌いになっちゃうんだよ。初恋の人と結ばれると、最初のうちは幸せで、毎日がキラキラ輝くんだと思う。でもね、そのうち大好きだったはずの初恋の人を嫌いになっちゃうの。憎んでしまうくらいに。なんでだろうね。初恋っていうのは、思いが強すぎるのかな」


 茜のことを憎んでしまうなんてことがあるだろうか。耕平は思わず想像を巡らせていた。想像できる限り、耕平が茜のことを憎むなんてことはあり得ないように思える。


「そんなの……迷信だよ」


「ううん、迷信じゃない。そう決まってるの」


「決まってるって……。なにか根拠はあるの?」


 断言する茜に疑問をぶつけると、茜はまた口を閉じた。しかし、今度はそれほど時間をおかずに口を開く。


「うちの、ママとパパがそうだから。二人は初恋同士で、ドラマチックに結ばれたんだって。それでお兄が産まれて、アタシが産まれて。アタシが五歳になるくらいまでかな。二人の仲がよかったのは。あの頃のママはさ、どれだけドラマチックに二人が結ばれたのかってことを話して聞かせてくれたんだよ。でも、それも長くは続かなかった。最後はお互いに憎しみあって。初恋を宝物のように語ってたママが、言ってたの。『初恋なんて幻想だった。こんなことなら叶わなくてよかった。幻想のままでよかった。叶えるべきじゃなかった』って。アタシすごく納得しちゃった。パパとママ。二人のことを見てたらそのとおりだなって」


 そんなのたまたまだと耕平は思ったが、達観したような茜の横顔を見ると、何も知らないのに安易に口にすることはできなかった。

 茜にとってはそれが真理なのだ。そんな風に理由をつけなければ両親の不仲や、実の父親から暴力を振るわれるという信じがたい現実を受け入れることができなかったのだろう。


「じゃあ、茜ちゃんは初恋の人と結ばれたいなって思ったりはしないの?」


 耕平は恐る恐る尋ねる。茜は表情を変えなかった。答えを探している風でもなく、ただなにもないすっかり暗くなった夜空を、口から白い息を薄く吐きながら眺めている。


「思わない……かな」


 ややあってから耕平を真っ直ぐに見てそう告げた茜の顔は、奇妙に歪んで見えた。泣きながら笑っているようなその顔に笑窪はなかった。

 茜は耕平の反応を待たずに立ち上がる。そして、


「もう行くね。遅くまでごめんねッ。耕平ママにもよろしくねッ。彼女さんにもちゃんと連絡しなきゃダメだよ! それじゃ」


 と一息に言って去っていく。

 耕平は一言も発することができずにあいまいにうなずき、手を振って茜を見送った。茜がいなくなると寒さがより一層増したように感じた。

 

 立ち上がると軽い立ち眩みがした。視界が狭まりふっとぼやける。耕平はゆっくりと瞼を閉じて、脳に血液が行き渡るのを待った。

 数秒するとふらつきは治まった。瞼を持ち上げると、視界は元通りに戻っていた。

 ふと、視界の中央にそれまでなかった人影が見える。茜が戻ってきたのかとも思ったが、違った。


「……こうちゃん」


「葵……?」


 見えた人影は葵だった。胸の前で組んだ手にはスマートフォンがお守りのように握られている。


「どうしてここに?」


 瞬時に、茜といるところを見られなかっただろうかと不安に思う。やましいことはないつもりだったが、そんな風に不安に思うこと自体がもうやましかった。


「近くまで来たから──、こうちゃんの家に行こうかと思って。でも、いきなり押し掛けるのは迷惑かなと思って、それで電話したんだけど出ないから……。それに最後には電源も切れちゃったみたいだし……。ねぇ、こうちゃん……?」


 寒いはずなのに粘り気のない汗が背中をツーッと伝うのを感じた。


「さっきの女の子……茜さんだよね?」


 耕平の心臓が一度大きく跳ねてズキンと痛んだ。

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