罪悪感(三)

 階下にはあかねがいた。玄関で耕平こうへいの母親と楽しそうに談笑している。「久しぶりじゃな~い」とか「大きくなっちゃって~」とか、親戚のおばさんのように前のめりで話す母親は嬉しそうだった。

 

 茜が突然いなくなってしまったことを心配し、寂しがったのは、なにも耕平だけではない。耕平の母親もまた耕平と同じように心配し、寂しがっていた。

 母親の心配は当時の耕平のそれよりも、より具体的なものだった。なにしろ最後に目にした茜は傷だらけで、何かしらの暴力に曝されていたことは明らかだったからだ。その暴力が家庭内でのものだということにも薄々気が付いていた。気が付いていたからこそ、あの日母親は茜に「困ったことがあったら、おばちゃんに言うんだよ」と声をかけた。茜が頼ることのできる大人になろうとした。


 しかし、裏を返せば声をかけることしかできなかったともいえる。

 大人である母親は、よその家庭の事情に踏み入る難しさを理解していた。そして、ひょっとしたら茜が耕平の前からいなくなってしまうことも予感していたのかもしれない。

 あの日母親が二人にゆずシャーベットを出したのは、声をかけることしかできないことへのせめてもの償いだったのかもしれない。

 今になって耕平は漠然とそんなことを思う。

 

 嬉しさのあまり矢継ぎ早に語り掛ける母親のわずかな隙を見て茜は、耕平に視線を向けた。耕平に背を向けていた母親も釣られて振り返る。


「あ、耕平。遅いじゃん。なにしてたの?」


 耕平は、部屋着で茜の前に立つのが恥ずかしくて、階下へと降りる前に外行きの服に着替えていた。しかし、それほど長い時間をかけたわけではない。


「着替えてたんだよ」


 耕平が応えると、茜は「ふ~ん……」と耕平を嘗め回すように眺めた。そして、


「──あっ、寝ぐせッ!」


 と言って、指をさす。耕平は反射的に茜が指さしたあたりに手をやるが、寝ぐせが立っている感触はなかった。すると茜はニヤリと笑った。


「嘘だよ~。耕平もいっちょまえに身だしなみなんか気にするようになったんだね~」


「そうなのよ~。最近、変に色気づいちゃって。お年頃なのかしらね。ね? 茜ちゃん。どう思う?」


「どうでしょうね~。耕平ももう高校生ですし、やっぱり女の子の視線は気になるってことですかね~」


 茜と母親は茶化すような視線を耕平に送る。


「なんなんだよ……」


 耕平はやれやれといった風にため息をついた。久しぶりに会ったとは思えないほど意気投合している二人を見て、あおいはこんな風に母親と話すことはできないだろうなと思った。また少し胸にモヤモヤとしたものが渦を巻く。


「お母さん。ちょっとこれから耕平くん借りてもいいですか?」


 ひとしきり雑談を終えたところで茜はやや遠慮がちに尋ねた。


「いいわよ。茜ちゃんと一緒なら安心だものね」


 母親は、昔と同じことを当時とは違い冗談めかして言って笑った。


「すみません。あまり遅くならないようにしますから」


 茜のほうも昔と同じようなことを言う。

 母親の了解を得ると茜は、「じゃ、行こッ」と言って耕平の手を引いた。触れた茜の手は冷たかった。耕平は手の冷たさと共にチラリと覗く腕に巻かれた包帯が気になったが、やはり尋ねることはできなかった。


「それで、どこまで行くつもりなの?」


 耕平の家を出てから三十分。茜は耕平の手を引いたまま、うろうろと彷徨った。

 しびれを切らした耕平が問い詰めるよう尋ねると茜は、


「どこまでって、決まってるじゃん! いつもの待ち合わせ場所だよ。おかしい。絶対この辺だったはずなのにッ!」


 と悔しそうに言った。


「待ち合わせ場所って、あの木陰になっててベンチがある?」


 耕平が訊くと茜は「そうッ」と耕平を指差しながら応えた。


「あそこなら少し前に工事があってなくなっちゃったよ」


 耕平が自分が悪いわけではないのにバツの悪さを感じながらそう告げると、茜は化粧っけの強い大きな目を見開いた。


「えっ!? マジッ!?」


 耕平は少し気おされながらうなずく。


「うっそ〜ッ! ちょっと、この町変わりすぎぃ~。耕平の家にだって全然たどり着けなかったんだから」


 二時間迷子になるのは特殊だといえるが、たしかに耕平の住むA市は凄まじい勢いで様変わりしていた。東京のベッドタウンという地位を確かなものにするためなのか、あちらこちらで再開発が進んでいる。新興エリアである耕平の家の周りですらそうだった。

 茜は木陰のベンチがなくなっていることにぶつくさと文句を言いながら、ちょうどいい車止めを見つけるとそこに腰を下ろした。耕平も隣の車止めに座る。


「そうまでして俺の家に来たってことは、なにか大事な用事でもあった?」


 耕平は内心ドキドキしながら尋ねた。そのドキドキはかつて茜と遊んだ夏に感じたものとよく似ていた。


「うん。まぁね。でも、もうほとんど解決した」


「どういうこと?」


 わけが分からないでいる耕平に茜はいたずらっ子のように微笑む。右側の頬に笑窪ができる。


「うん。ほら、アタシ急にこの町を出て行ったじゃん? タイミング的に耕平のママにすっごい心配かけるタイミングでさ。だから、アタシは大丈夫ですって知らせたくて。もちろん、もっと早く来ることもできたんだけど……」


「ホントだよ……」


 思わず耕平が言うと、茜は一瞬息を呑んで言葉に詰まった。しかし、深く息を吸って吐くとまた語り始める。


「──ごめんね。耕平にも心配かけたよね。もっと早く謝ろうと思ったんだけど……。耕平が怒るのも無理ないけど、でも、アタシにも色々事情があってさ」


 事情というのは茜の父親のことだろうか。あるいは、刺青の男のことだろうか。

 当時の耕平にはよく分からなかったが、今は茜が『パパから逃げている』と言った意味が分かる。茜は、そして、茜の母親や兄は、父親の家庭内暴力から逃げていたのだ。茜が傷だらけになっていたあの日、茜をそんな風にしたのは茜の父親だ。


「別に怒ったりはしてないよ。ただ、心配だった」


「うん……」


 気まずい空気が流れる。お互いが黙ってしまって、静かになった空間にブーッ、ブーツと規則的な音が鳴った。


「スマホ鳴ってる。耕平のじゃない?」


 茜に言われてズボンのポケットに触れると耕平のスマートフォンが鳴動していた。ポケットから出すと画面は葵からの着信を告げている。耕平は、電話に出ることなく、そのまま通話を遮断した。


「いいの? 出なくて」


 茜が心配そうな目を向ける。耕平は茜の顔を見ることなく黙ってうなずくと、隠すようにズボンのポケットにスマートフォンをしまった。


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