フォーリンエンジェル(三)

 翔也しょうやが行ってしまうと、もうあかねの元にやってくる人はいなかった。


「なんかごめんね」

 

 少し落ち着いてから、茜は全く悪びれずに謝った。

 茜の謝罪の意味が耕平こうへいには分からなかった。頭が少し混乱していた。もしかしたら店内に充満するアルコールの匂いで、少し酔っぱらっているのかもしれない。

 

 なぜ謝られたのかを考えると、瞬間的にあの夏いなくなってしまったことに対するものなのではないかと思ってしまう。けれど、そんなはずはなかった。それならもっと早く謝るタイミングはあっただろう。それこそ再開したその瞬間に謝ってくれてもよかったし、この店に来るまでの間だって謝ることはできたはずだ。

 少しふわふわする頭を無理やり回転させて、ようやく茜の謝罪が次から次へとやってくる友人の相手をしてばかりで、耕平をほったらかしにしていたことに対するものだと分かった。


「大丈夫だよ。ていうか、茜ちゃんはこの店の常連なんだね。彼氏が店員だから?」


 意図はしなかったが、嫌味っぽくなってしまう。けれど、茜の側に気にした様子はなかった。


「うーん、まぁね。ってか、その『茜ちゃん』ってのやっぱり恥ずかしい」


「そう? でも、茜ちゃんが許可してくれたんだよ」


 意地悪をしたくなった耕平はイタズラっぽい笑みで茜を見る。茜は苦笑いを浮かべて


「まぁ、そうだ。耕平の言う通りだ。仕方ないね。それに恥ずかしいってだけで別に嫌なわけじゃないし」


 と言った。

 そして、唐突に話題を変えた。そんなところは昔から変わっていなかった。


「耕平の彼女さ、あの子ってひばり台だったりする?」


 ひばり台中学の出身か? という意味だろう。なぜそんなことを聞くのかは分からなかったが、嘘をつく理由も思いつかないので、うなずいておく。

 茜の前ではあまりあおいのことを考えたくはないのだが、どういうわけか考えざるを得ない状況になってしまう。


「あの子って……大丈夫なの?」


「大丈夫って?」


 今度もなぜ茜がそんなことを訊くのかが分からない。そもそも茜の質問は抽象的すぎた。


「前に駅ビルで会ったじゃん? あんとき気づいたんだけど、あの子、リスカ。してるよね?」


 問われた耕平は否定も肯定もできなかった。事実、耕平は葵が腕に巻いている包帯のわけを知らない。たしかにクラスメートの噂では、リストカットをしていてそれを隠すためだということになっている。しかし、それを葵に確かめたことはない。

 分からないと応えるしかなかった。しらばっくれてると思われるかもしれないが、それ以外に応えようがなかった。

 ふと、茜の腕に目が止まる。茜の腕にも葵と同じように包帯が巻かれている。どうして今まで気が付かなかったのか不思議なくらい、痛々しい包帯は茜の細い腕を石膏のように見せていた。


「そっか。まぁ、付き合ってるからってなんでも知ってるわけじゃないもんね」


 どこか意味ありげに言う茜は、自分で注文したグラスで口を濡らす。今の今まで興味もなかったのに、包帯に気がつくと気にならなかったことまで気になり出す。しかし、包帯のことを訊くことはできなかった。


「茜ちゃん。それって何飲んでるの?」


 代わりに当たり障りのないことを尋ねる。

 耕平が訊くと、茜はグラスを軽く持ち上げて傾けた。細い棒の先に逆さにした三角錐を乗せたような形をしたグラスの中では、ほとんど白に近い黄色の液体が揺れていた。茜の腕の包帯と同じような色だった。


「これ? これはフォーリンエンジェルっていうカクテル」


 聞いたことのないカクテルだった。とはいえ、酒の種類に詳しいわけではない。ビールや焼酎という酒があることは知っているが、カクテルとなるとすぐに挙げられるものがない。

 それよりも、なぜか寂しそうな茜が気になった。思っていた味ではなかったのだろうか。しかし、常連でしかも彼氏が作ったカクテルだ。それほど大きく味が期待値を下回るとは思えない。

 耕平が怪訝に思っていると茜はさらにグラスを傾ける。


「耕平も飲んでみる?」


 どこか祈るように言った茜を見て、耕平は飲んでみようという気になった。普段なら絶対に酒を飲もうなどとは思わないのに、自分でも不思議だった。


「うん。少しだけ、飲んでみたい」


 耕平が応えると茜は、嬉しいのか悲しいのか分からない顔でグラスを差し出す。心なしか手が震えていた。それは耕平の方も同じでカタカタとグラスの底がテーブルに当たる。


「ダサっ」


 茜は心の内を誤魔化すようにわざとつっけんどんに言った。


「うるさいな。お酒なんか普段飲まないんだから緊張すんの。それに俺未成年だし……まぁ、それは茜ちゃんもだけど」


 緊張と罪悪感からか饒舌になった。話しながらグラスのふちを唇に近づけると柑橘系の香りが鼻をかすめる。いつか茜と食べたゆずシャーベットとそっくりな香りだった。それは耕平にとっての初恋の匂いだった。

 そのまま唇を付ける。ほのかな酸味とともにアルコール独特の香りが口から鼻へと抜けていく。口に含んだ液体が喉を抜けると、遅れて少し熱を感じた。

 あまり美味しいとは思えなかったが、何処か儀式めいていて耕平はまんざらでもない気持ちだった。


「あ〜ぁ、飲んじゃった。イケないんだ」


 茜は右側にだけ笑窪を作って笑った。


「どう? 初めてのお酒の味は」


 頬杖を付いて、耕平を試すように上目遣いでジッと見ている。


「初恋の味に似てる」


 耕平は思わずそう応えていた。

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