フォーリンエンジェル(一)
『今日の十九時。B駅に来れる?』
あれから
葵の方は、あの日だけ少し不機嫌だった。初めてのちゃんとしたデートを邪魔されたと思ったのかもしれない。けれど、茜が悪いわけではないし、耕平だってわざと茜と待ち合わせたわけではない。それが分かっているからか、葵は翌日からはいつもどおりだった。
茜からのメッセージに特に用件は書いていなかった。ただ、時間と場所を指定して、来られるかと尋ねているだけだ。『遊ぼう』と言っていたから、おそらくは遊びの誘いなのだろう。しかし、待ち合わせが十九時というのは遅すぎると思った。耕平はそんな時間から遊びに出かけたことはない。
しかし、耕平は茜の誘いを受けるつもりでいた。また茜に会いたいと思っていた。
そんな時間に家を出れば母親はきっと怪訝な顔をするだろう。だが強く止めることはないと思った。もう小学生ではない。
耕平を躊躇させるものがあるとすれば、それはやはり葵への罪悪感だった。気のせいだったと思うほど薄れていた罪悪感は、茜からのメッセージと共にまた沸々と湧き上がってきていた。
耕平はそんな罪悪感を振り払うように部屋着を脱ぎ捨てて、洗濯してもらったばかりの服に着替えた。そして、母親に一言声をかけて家を出る。母親は予想どおり怪訝な顔をしたが、止めることはなかった。
『どこにいるの?』
B駅に着いてすぐに茜へメッセージを送る。すぐに既読になって返信があった。茜は前に葵と待ち合わせたあのモニュメントのところにいた。
遠目からも分かる金髪が目印のように揺れている。
「あ、耕平ッ! やっほ!」
茜は耕平を見つけると大声をだして手を振った。茜の周りにいた人たちが一斉に茜に視線を送る。そして、茜が手を振る先へと視線を動かした。
耕平は恥ずかしくなって小走りに茜の元へと駆け寄る。耕平が駆け寄ると、茜は着崩した制服のスカートの皺を直しながら耕平の横に並んだ。つい太ももの痣に目が行く。
「つか、ホントに来たんだね」
「誘っておいてひどい言いぐさだね。そりゃ、誘われたら来るよ」
「いやいや。彼女いるでしょ? 大丈夫なの?」
「うん。大丈夫」
「ホントかなぁ~。彼女がいるのにほかの女と二人きりで会うなんて悪いヤツだ」
なるべく葵の話をしたくはなかった。茜からメッセージを受け取って以来、沸々と湧き上がった罪悪感は茜を目の前にした今、無視できないほど大きくなっていた。耕平は極力葵のことを考えないことで罪悪感に蓋をしたかった。
「ふ~ん。理解ある彼女さんだね。じゃあ、ママは? こんな時間に外に出てきたら心配するんじゃない? 耕平のママは心配性だもんね」
「いつの話だよ。もう子供じゃないからね。そっちも大丈夫」
耕平が言うと茜は「もう子供じゃない……か」と言って懐かしむように目を細めた。
「ていうか、茜ちゃんが呼び出したんじゃん」
小学生の時のように『茜お姉ちゃん』とは呼ばなかった。なんとなく気恥ずかしかったし、『茜お姉ちゃん』という呼び方は子供っぽいと思った。自分で口にした『もう子供じゃない』という言葉を耕平は妙に意識していた。
かと言って、呼び捨てにするのも気が引けた。その結果が『茜ちゃん』だ。そんな葛藤は茜にバレているようだった。
「……ぷっ! 『茜ちゃん』って。何それ」
耕平が呼ぶのを聞くなり茜は吹き出して笑った。耕平はムッとして、下唇を噛む。恥ずかしさで顔が赤くなっているかもしれない。
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」
「いやいや、昔みたいに『茜お姉ちゃん』でいいじゃん。アタシが年上で、お姉さんなのは未来永劫変わらないんだからさ」
「そうかもしれないけど、嫌だよ。お姉ちゃんなんて子供っぽいじゃん。俺、もう子供じゃないんだから」
「あはは。そうか、そうか。耕平はもう子供じゃないか。うんうん。大人になったんだね〜。よしよし、分かったよ。お姉さんが『茜ちゃん』と呼ぶこと、正式に許可しましょう」
「なんだよ。それ。俺と二つしか変わらないくせに」
茶化された耕平はさらにむくれたが、茜はお構いなく笑った。
「でも、だれかから『茜ちゃん』なんて、初めて呼ばれたかも」
「俺の母さんは『茜ちゃん』って呼んでたよ」
「あ〜、そうだったっけ。よく覚えてるね。でも、本当にそれだけだよ。みんな『茜』って呼び捨てにするか、『お前』って呼ぶかのどっちかだもん」
そう言われると『茜ちゃん』という呼び方が特別なもののように思えた。そんな特別な呼び方を『許可する』と言ってもらえたことが嬉しかった。
「とりあえずさ、どっかお店入ろうか。よく行く店なんだけど、そこでいいよね?」
茜に言われるがままに連れて行かれたのは、何をする場所なのかよく分からないというのが第一印象の変わった店だった。
店内は間接照明しかなく、薄暗い。タバコの煙が充満しているため、薄い霧の中にいるのかと錯覚してしまう。耕平一人では絶対に立ち寄らないような店だった。
店内には客と店員を隔てるように大きなカウンターがあり、その向こうにはたくさんの瓶やグラスが並んでいる。おかげでかろうじて飲食店なのだと分かる。
店内には何人か人がいたが、茜はその全員と気さくに挨拶を交わす。全員が共通してガラが悪い。
「アタシ飲み物頼んでくるけど、耕平は何がいい? アタシはお酒飲むけど……。耕平はさすがにお酒はまずいでしょ? アルコール以外もあるからさ」
当たり前に酒を飲むという茜も未成年だ。茜を遠い世界の人間のように感じる。
耕平も酒を飲んだことがないわけではないが、それは幼い頃、親戚の集まりがあった時にほんの一口舐める程度のものだった。あまりの苦さにすぐに吐き出してしまった。そんなことを胸を張って言ったらまた笑われてしまうだろう。
何が置いているのか分からないから、耕平は適当に「何か炭酸の飲み物を」と茜に頼んだ。茜は「はいは〜い」と言って手をひらひらさせながら颯爽とカウンターに向かっていく。
カウンターの奥では、ドレッドヘアーの男がめんどくさそうにタバコをふかしていた。あんな場所にいなければとても店員だとは思えないが、茜は恐れる様子もなくドレッドヘアーの男に飲み物を注文する。
男は茜が近づくと表情を変えた。それから、カウンター越しに手を差し出す。茜の方も慣れた様子でその手を取った。男は茜の手をグイッと引くと茜の顔に自分の顔を近づける。キスをしているようだった。
耕平は思わず目を逸らした。胸がザワザワと泡立つ。人がキスをしているところを見るのは初めてだった。
「お待たせ。とりあえず、コーラにしたけどいいよね?」
茜は耕平が見ていたのを知ってか知らずか、さっきまでと変わらない調子で戻ってきた。
「あ、うん。ありがとう」
耕平はまともに茜の顔を見ることができなかった。チラチラと何度もカウンターを盗み見る。ドレッドヘアーの男は変わらずめんどくさそうにタバコをふかしている。
「あいつ?」
耕平の視線に気がついたのか、茜もカウンターの方に目を向ける。そして、聞いてもいないのに
「アタシのカレシなんだ」
と言った。
耕平はまた胸がザワザワと掻きむしりたくなるほどざわつくのを感じた。
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