彼女(三)

『放課後。屋上に続く階段の踊り場に来てください』


 そう書かれた手紙を見つけたのは、夏休みが明けて少しした昼休みのことだった。味気ない便せんに可愛らしい文字で書かれたその手紙は、耕平こうへいの机の中にいつの間にか無造作に入れられていた。

 差出人はあおいだった。


「なにそれ。手紙? もしかして、橘花たちばなから?」

 

 不意打ちだったから、たまたまそばを通った沙月さつきに手紙を見られてしまった。耕平は、いまさら隠しても遅いし、不自然だと思って「そうみたいだね」と応えた。

 あえて見せるようなことはしなかったが、短い文面だったからおそらく内容まで知られてしまっただろう。


「それって……告られるやつじゃない?」


 沙月は茶化すでもなく、真剣な表情で何か深刻な事態に直面しているかのように声を落とした。普通なら黄色い関心が表れる場面なのだろうが、沙月の表情にそんなものは微塵もない。

 耕平も察しの悪い方ではないから、手紙の趣旨は理解していた。そして、沙月がこれから言うであろうことも分かっていた。


「甘楽くん。行くの? やめといたほうがいいと思うけど」


 沙月は心配そうな目を向ける。

 

 耕平はさほど迷うことなく、行こうと思っていた。もとから行かないという選択肢はなかった。

 耕平が行かないことで葵がひどく傷つくだろうことは容易に想像できる。傷つくだけでは済まないような予感もあった。

 葵に対して単なるクラスメート以上の特別な感情は抱いていない。けれど自分が原因で葵を傷つけたくないという理由で、葵の告白を断ることがないことも耕平は自覚していた。

 

 そんな気持ちで葵の告白を受け入れること、そしてそんな気持ち自体を葵に知られることが、結局のところ葵を傷つけることになる。葵の告白を受け入れることは、葵を傷つけるのが早いか遅いかでしかない。

 耕平は責任を取るようなつもりでいた。初めて葵に声をかけたときから、どこかでこういうときが来ることを予感していた。

 

「甘楽くん、断れないでしょ? 甘楽くん、別に橘花のこと好きじゃないじゃん。そういうのって優しさとは違うと思う。それに──、絶対後悔するよ」


 耕平は、「横山よこやまさんは俺のことそんなに知らないでしょ?」と言って受け流す。沙月は、言うべきことは言ったと思ったのか、納得はしていないようだったが、それ以上は何も言わずにその場から去っていった。

 

 夏休みが明けてからも、葵は相変わらずいつも一人で過ごしていた。そんな中で唯一、話をする相手が耕平だった。

 テキストを貸してやったことをきっかけに、葵はときどき耕平に話しかけるようになり、その頻度は日を追うごとに増えていった。耕平の方も、話しかけられれば普通のクラスメートとして接していたし、内容自体は当たり障りのないことだったが、耕平の方から話しかけることもあった。


 耕平は葵がすこしずつ耕平に依存しているのを感じていた。葵から告白されるのも必然だと思えた。いつかはそうなると分かっていて放っておいた。

 

 きっと耕平じゃなくてもいいのだと思う。たまたま声をかけて優しくしてくれた相手が耕平だっただけだ。別の人間が耕平と同じことをしたらきっと葵はその相手に告白をしたのだろうなと耕平は思った。

 とはいえ、葵の思いに嘘はないのだろうとも思う。現に葵に話しかけたのは耕平だけであったし、別の人間がという仮定には意味がない。

 

 葵が指定した屋上に続く踊り場は、普段生徒が近づくことは決してない場所だった。

 屋上は常に施錠されている。登っていっても行き止まりだ。そんなところに用事のある生徒はいない。いるとすれば素行の悪い生徒が煙草をふかすためくらいのものだが、そういう生徒は耕平の高校にはいなかった。


 ただでさえ、人気ひとけのない場所にさらに人気の薄れた放課後に向かう。

 シンと静まり返った階段。その先に葵はいた。

 俯いた横顔は、不安そうだった。耕平は来ないかもしれない。いや、仮に来たとしても、耕平は自分の申し出を受けてくれるだろうか。受けてくれないかもしれない。きっと受け入れてくれないだろう。そう思うと胸が張り裂けそうなほど苦しい。

 どうしてあんな手紙を送ってしまったのだろう。あんな手紙送らなければよかった。そう思っても、もう遅い。そんな不安に押し潰されそうだった。

 

 耕平が踊り場にやってきたとき、葵は過呼吸を起こしかけていた。


「──橘花? 大丈夫?」


 耕平が声をかけると葵は、ハッと顔を上げる。大きな瞳にじんわりと涙が滲んでいた。ハッハッハッと断続的に短くを息を吸いながら、葵は辛うじてうなずいた。


「甘楽……くん…………。来て……くれた……んだ……」


「そりゃ、呼ばれたからね。来るよ」


 まだ少し苦しそうな葵を心配しつつ、耕平は苦笑いを浮かべた。


「ごめん……なさい……」


「謝らなくていいよ。それより大丈夫? 落ち着いてからでいいよ」


 背中をさすってやると、葵の呼吸が落ち着いていく。葵はその間も「ごめんね」と謝り続けた。

 

 しばらくして、落ち着いてきたころ、耕平が葵の背中から手を離すと沈黙が広がった。

 用件に察しが付いているとはいえ、呼び出したのは葵で、用があるのも葵の方だ。けれど、葵はなかなか本題に入ろうとしなかった。耕平の方も状況が状況なだけに自分から促すのはおかしいと思って黙っている。

 ややあって、葵がスゥッと深呼吸したのが分かった。


「甘楽くん。──葵と付き合ってください!」


 差し出された腕には包帯が巻かれていなかった。左腕か、そんなことを思いながら耕平は、おもむろにその手を取った。ひんやりとした葵の手の温度を感じる。


「いいよ」


 それだけ言うと、信じられないといった風に葵の目が見開かれていく。そして、また涙の膜が瞳を覆った。


「いいの!?」


「断った方がよかった?」


 心底意外だと言いたげな葵の声に耕平は苦笑いで応える。葵は勢いよくブンブンと首を振ると、また俯いてしまった。冷たかった手がどんどん熱くなる。

 

 ふと見ると、茜色の空が窓から覗いていた。差し込む光に照らされた葵の顔はオレンジ色に染まっている。


「もうすぐ暗くなるし、危ないから一緒に帰ろうか」


 耕平が言うと葵はようやく顔を上げる。

 そして、「うん」と言って笑った。耕平が初めて見る葵の笑顔だった。その頬には深い笑窪があった。

 耕平は深い影を作る葵の笑窪に、あかねのことを重ねていた。心にポッカリと空いた穴に薄い膜が張られているのを思い出したような気がしていた。

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