彼女(二)

 耕平こうへいあおいと初めて話をしたのは、ある日の放課後、クラスに溶け込めないでいた葵にたまたま耕平が声をかけたときのことだった。教室の片隅で誰からも声をかけられることなく、いつも一人で座っている葵を、正義感の強い耕平は放っておくことができなかった。

 とはいえ、クラスの中心に引っ張っていって充実した学校生活を送らせてあげたいといった大それたことまでは考えていなかった。ただ、いつもつまらなそうに何もない空間を眺めている葵を可哀そうに思っての行動だった。

 

 葵がいじめにあっていたのかというと、そういうわけではない。クラスの男子の中には「カワイイ」といって、チラチラと視線を送る者もいた。小柄で色白の葵は、実際カワイイ部類の女の子だった。一見するとおとなしそうで真面目な印象の葵は、放っておけばそれなりに男子からチヤホヤされるような見た目をしていた。

 しかし、葵はその見た目とは裏腹にどことなく近寄りがたいオーラを放っていた。それと合わせて長袖のブラウスの袖から時折覗く包帯が、周りの人間をやんわりと遠ざける。特に女子はやっかみ半分に葵のことを『メンヘラ』だと言って、噂しあっていた。

 

 耕平自身、最初になんと声をかけたのかは覚えていない。なんてことのない事務的な連絡とか、挨拶と大差ないたわいの無い声掛けとか、その程度のことだった。

 葵の方も「うん」とか「大丈夫」とか事務的に応えるだけだった。

 

 初めは、それだけのことだった。

 

 ある日、葵が授業で使うテキストを忘れてきたことがあった。普通の生徒であれば隣のクラスメートに見せてもらって対処するのだろうが、葵にはそれができなかった。

 耕平の席の三つ前に座る葵は、たまにチラチラと隣に座る女子の方に視線を送るが「一緒に見せて」の一言が言えないでいた。


「先生。橘花たちばなさんのテキストが俺の机に入ってたみたいです。今、橘花さんに返してもいいですか? 」


「なんだ? 甘楽かんら。なんで橘花のものがお前の机に入るんだ? 人のものを盗んじゃダメじゃないか」


「すみません。前の授業寝てたので寝ぼけてたのかもしれません。──橘花も。ごめんな」


「おいおい。他はいいけど、俺の授業では寝るんじゃないぞ。というか、寝ぼけてても人のテキストは机に入らんだろう」


 教室に笑いが起こる。

 葵の眼は驚きに満ちていた。葵にはテキストを家に忘れてきてしまったという自覚があった。耕平の意図することが分からなかった。

 そんな葵に耕平は目だけで、「いいから」と訴えた。通じたのかは分からない。単に声を発することができないだけだったのかもしれない。いずれにしても、葵は何も言わなかった。

 

 席を立って自分のテキストを葵に手渡す。遠慮がちにスッと伸びた右腕には、包帯が巻かれていた。

 包帯が巻かれている理由をクラスメートが『リストカット』だとか『メンヘラ』だと噂しているのを耕平も知っていた。そして、それがおそらく外れてはいないだろうことも知っていた。知っていたけれど、だからといって葵のことをどうこう思うことはなかった。

 耕平は、あまり関心を、持っていなかった。


 葵が受け取ったのを確認すると、背を向けて自分の席に戻る。クラスメートが自分に向ける好奇の視線を感じたが、耕平は気にならなかった。


甘楽かんらくん……。さっきは、どうもありがとう」


 授業のあとで、葵はわざわざ耕平の席までやってきて礼を言った。

 礼の後でおずおずと耕平のテキストを差し出す。耕平の周囲に、にわかに緊張が走った。耕平は、あえてそれを意識しないようにしながら「大丈夫だよ」と言って、やんわりとテキストを突き返す。

 葵は、胸の前で両手をさすりながら、困ったように首を傾げた。


「こんなところに持ってきて、また俺の机に入っちゃったら困るでしょ? ちゃんと自分の机にしまっておきな。誤魔化しても無駄だよ。ちゃんとしまってるか後でチェックするからね」


 なるべく大げさにならないように冗談めかして話す。誰もいなくなった放課後にでも勝手に返してもらうという意味で言ったつもりだった。意図が伝わったのか、葵は、無言でうなずいて自分の席へと帰っていった。


「甘楽くん。気を付けた方がいいよ」


 横山沙月よこやまさつきから声がかかったのは、葵が自分の席に戻ってしばらくしてからのことだった。

 耕平の後ろの席に座る沙月は、クラスの中でも比較的目立つ女子だった。あまり成績がいいタイプではないが、活発で面倒見がよくノリもいいためクラスメートの人望も厚い。いつもニコニコしているような女子だった。

 そんな沙月が珍しく眉を顰めている。


「気を付けた方がいいって、なにが?」


 耕平が尋ねると、聞かれてはまずい話をするつもりなのだろう。沙月は、声を落とした。

 

「私さ、橘花と同じ中学だったんだけど……あの子さ、ちょっとヤバいんだよ」


「ヤバいって?」


「だからさ、メンヘラっていうの? 真面目は真面目で、放っておけば無害なんだけどさ。あの腕の包帯。見たでしょ? あれ真夏でもしてるんだけど、リスカ痕を隠すためなんだよ。──だからさ、あんまり関わらないがいいと思うよ」


 沙月は、自分の机に両肘をついて、祈るように手を組んでその上に自分の顎を乗せている。まるで取り調べを行う警察官のような恰好も相まって、忠告というよりはほとんど命令のようだった。

 しかし、沙月の説明を聞いても耕平にはなにがヤバいのかが分からなかった。たしかにリストカットは褒められた行動ではないと思うが、耕平には、沙月を含むクラスメートが殊更にリストカットをあげつらっているように思えてならなかった。


「関わらないようにって言われてもなぁ。橘花さんはクラスメートなわけだし。それにテキストを間違えて盗んじゃったのは俺が悪いんだし、謝らないわけにはいかないでしょ?」


 耕平は、少しわざとらしく肩を竦める。沙月は、浅くため息を吐くと


「間違えて盗んじゃったってなによ。まぁ、私は忠告したからね」


 と半ばあきれ気味言った。


「ありがとう。一応、覚えておくよ」


 チラリと前に座る葵へと目を向けると相変わらず何もない空間を見つめて、じっと座っている。まるでこの時間が早く終わってほしいと願いながら耐えているようだった。

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