第二章 君は東京
彼女(一)
過去に抱いた感情に時間が経ってから名前がつく。そんなことがある。思い返すと、あれはこういうことだったのかと納得する。
感情に後になってから名前がつく現象。それはおそらく成長だ。
小学一年生の夏、耕平が
あの日、耕平の家から去っていった後ろ姿。それが最後に見た茜の姿だった。あれ以来、茜には一度も会っていない。
夏休みが終われば、もしかしたら学校で会えるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、叶わなかった。
しばらくの間、耕平は塞ぎ込んでいた。心にポッカリと穴が空いたような喪失感。とても大切なものを失ってしまったという自覚は、痛みとともに少し遅れて後から湧いてきた。
痛みと喪失感は、幼い耕平の心を蝕んだ。忘れてしまいたいのにできなかった。ずっと残って耕平の心を痛めつけた。
何年も変わらず胸に宿り続けた思いがなんであるのか。それが分かったのは、中学生に上がったころのことだった。思春期になり、周りの友人たちが色恋沙汰で大騒ぎをするようになって初めて茜に対する思いが恋なのだと知った。
修学旅行のとき、同じ部屋の友人と好きな女の子を発表しあわなければならなくなった。そのとき、真っ先に浮かんだのは茜の顔だった。
茜への思いが思い出に変わり始めたのは、耕平が高校生になってからだった。
高校生になった今、ようやく耕平はほろ苦い初恋の記憶をほんのわずかに残る喪失感と痛みとともに回想することができるようになっていた。心に空いた穴が埋まることはなかったが、茜のことはもうほとんど記憶の奥にしまいこんでいた。
ただ、ゆずシャーベットを食べると思い出す。その程度だ。それくらいには茜への思いに整理をつけることができるようになっていた。
「ねぇ、こーちゃんの初恋っていつだったの?」
誰もいなくなった教室で、耕平と向かい合って座る葵は、耕平が目を向けると顔を隠すように落ち着きなく前髪を指先で撫でる。黒髪のボブカットが揺れた。
応えを聴きたいのに、応えてほしくない。そんな葛藤が指先に表れていた。
「あぁ、ごめん、ごめん。初恋の話、だっけ?」
「そうだよ。葵、最初からそう言ってるよ。なに? こーちゃん。もしかして、他の女のこと考えてた?」
「初恋のことっていったら、他の女の子のこと考えちゃうに決まってるじゃん。もしかして、これって罠?」
「え~、そんなんじゃないけど……。でも、こーちゃんの初恋の話は聴きたい。あ、でも他の女のことは考えてほしくない~。う~ん、葵、わがままだね」
「葵がわがままなのは今に始まったことじゃないでしょ? それにしても、初恋か~。う~ん、あれがそうだったのかなっていうのならあるけど……。あれは初恋と呼んでいいのかな」
耕平は、独り言のようにぶつぶつと呟いた。実際、初恋だったという自覚はある。しかし、胸を張ってだれかに発表してしまうのは怖かった。口にしてしまうと胸の奥に押し込んだ思いがまた息を吹き返してしまいそうだ。
「どういうこと? 初恋に、呼んでいいか悪いかなんてなくない?」
「まぁ、そうなんだけどさ。別に付き合ったりしたわけじゃないから」
葵の頬がピクッ動く。付き合ったという言葉に反応してのことだった。
「付き合ってなくても、片思いだとしても好きだったならそれはもう恋なんじゃないの? もしかして、幼稚園の先生とか? それなら確かに付き合えるわけないもんね。ありがちっちゃありがちだけど……」
そうであってほしいという思いが言外に表れる。しかし、耕平はあっさりそれを否定した。
「いや、幼稚園の先生じゃない。小一のときなんだけどさ。近所に二つ年上の女の子がいたんだよ」
「ふぅ~ん。その子が初恋の相手?」
「うん。たぶんね。そのときは、そんな自覚はなかったんだけど、今こうして思い返してみたら、初恋だったなって」
「そうなんだ。どんな子だったの? ていうか、今も交流あるの?」
「いや、その子はある日突然いなくなっちゃったんだよ。だから、今どこでどうしてるかも分からない。なんとなく普通の子じゃなかったからな~。なにしてんだろうな」
最後はそこにいないだれかに語り掛けるようになっていた。
「そうなんだ。その子、元気にしてるといいね」
いくらか声に張りが戻った葵は社交辞令的に、耕平の初恋の相手を思いやった。
「でも、その子が今突然現れたら、こーちゃん、どうする?」
「どうもしないよ。思い出話くらいはすると思うけど……十年近く前のことだからね。それに一緒にいたのって夏休みの間の一か月くらいだけなんだよね。だから正直、今会っても何を話していいか分からないし、気まずいと思う」
耕平は、いざそうなったら自分でも気持ちの制御ができるか分からなかった。茜以上に耕平の心をとらえて離さない女の子はいないと確信していた。だからこそ、葵の試すような質問を耕平は慎重に受け流した。
「──そっか。こーちゃん! 浮気したら許さないからね!」
内に秘めた不安を隠すためか、葵はわざと悪戯っぽく笑う。その頬には笑窪があった。葵は、高校生になってできた耕平の初めての彼女だった。
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