茜の秘密(五)

 次の日、耕平こうへいはいつもと同じ時間に待ち合わせ場所に向かった。けれど、そこにあかねはいなかった。それ自体は珍しいことではない。

 遅刻癖のある茜のことだから、少し遅れてくるだろう。そんな風に言い聞かせて待つ。しかし、いくら待っても茜は現れなかった。


 お父さんに意地悪されてるのかもしれない。もしかしたら、お酒を呑んだお父さんに叩かれているのかもしれない。それで今度は大けがを負ったのかもしれない。

 いや、お父さんじゃなくて刺青の男の方がやってきたのかもしれない。それで、また体を触られて、お兄ちゃんが殴られて……。

 茜は泣いているかもしれない。今この瞬間も。一人で。


 悪い想像ばかりが頭をかけめぐる。いてもたってもいられなくなって、耕平は茜の家へと向かった。

 

 茜の家を視界にとらえると、遠目からでもすぐに異変に気がついた。玄関が開け放たれている。

 

 近づいて部屋の中を覗いてみると、めちゃくちゃに荒らされていた。

 見える限りの場所に茜の姿はない。茜の母親も兄も、そして父親も刺青の男もいなかった。空っぽだった。

 部屋は荒れ放題荒れているのに、それとは不釣り合いな静寂が茜の家にはあった。まるで絵画や写真のようにそこだけ時間が止まっているようだった。


 どういうことだろう。悪い想像が当たってしまったのだろうか。なんであんな想像をしてしまったんだろう。耕平のせいであるわけがないのに、訳もなく罪悪感がこみ上げる。


「──君は?」


 耕平が呆然と立ち尽くしていると、ふいに背後から声がした。振り返ると恰幅のいい白髪の老人が立っていた。


「君は、ここの家の子……じゃないね? ここの男の子は、もう少し大きかった」


 老人は大きな四角いメガネをかけていた。メガネの奥の目は優しかった。


「──と、するとここの家の子のお友達かな?」


 耕平がうなずくと、老人は「そうか」と言って耕平の頭を撫でた。それだけなのに、なにか茜に良くないことが起こったのだと思った。聞きたくないのに、聞かずにはいられなかった。


「茜お姉ちゃんは? どこにいるんですか?」


「茜お姉ちゃん? ああ、あの元気のいい女の子のことかな? うん。実はね、私も探しているところなんだよ。とは言っても、私が探しているのは茜お姉ちゃんを含むその家族、なんだけどね」


 老人は皺だらけの顔をさらにくしゃっとさせて笑う。


「探してるって……。茜お姉ちゃんは、どこかに行っちゃったんですか?」


「うん。そのとおり。どこかに行っちゃったみたいなんだ。どうやら昨日の夜みたいだね。今朝、この部屋で暴れている男がいるという連絡を受けてね。警察と一緒にやってきたら、比較的身なりのちゃんとした男が、やや乱暴に家探やさがしのようなことをしていたんだよ」


「身なりのちゃんとした男……」


 少なくとも刺青の男ではない、と耕平は思った。


「うん。事情を聴けば、なんでも、ここの家の主人だとかなんとか言っていてね。でも、ここの借主は女性だ。私が知る限り、成人男性の同居人はいなかったはずだよ。借主の女性と中学生の男の子、それから小学生の女の子の三人が暮らしていたはずだ。私はここの大家だからね。その場で契約書を見せて警察に説明したら、男は連行されていったが……」


 耕平は茜の父親に違いないと思った。


「それで、茜お姉ちゃんは、無事なんですかっ!?」


 茜の父親の話などどうでもよかった。茜の無事、それだけが知りたかった。


「それが分からないんだよ。もちろん、見てのとおり部屋にはだれもいないし、契約のときに聞いていた電話番号にかけても繋がらない。まぁ、家財道具一式置きっぱなしだから、そのうち帰ってくるとは思うがね。鍵が部屋に置きっぱなしだったからね。こちらで預かっている鍵で施錠してもいいのだけど、そうすると彼女たちは家に入れなくて困るだろう?」


『パパから逃げている』と言った茜の言葉が思い浮かんだ。『パパに見つかった』とも言っていた。

 もう茜はここには戻らないのかもしれない。そんな予感がした。


 ふと玄関の脇を見ると、昨日一緒に食べたゆずシャーベットのカップが置かれていた。そして、そこにねこじゃらしが寝かされるように挿さっている。茜はカップを持って帰っていたのか。気が付かなかった。


『もっと耕平と遊びたい』と言った茜の言葉を何故だか思い出す。

 もしかしたら、あれは昨日一日もっと遊びたいという意味ではなかったのかもしれない。もう耕平とは遊べなくなる、という意味だったのではないか。そう思うと視界がぼやけて、ゆずシャーベットのカップとねこじゃらしはほとんど見えなくなった。


 それっきり、耕平は茜と会うことはできなくなってしまった。

 耕平の胸には、悲しげな茜の顔とゆずシャーベットを食べた跡に残るほのかな酸味だけがいつまでもいつまでも残り続けていた。


【第一章 了】

 

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