茜の秘密(四)

「大人ってさ……ずるいよね。自分たちの都合で結婚して、勝手に離婚して。その離婚だって、ちゃんとできなくて……。アタシもお兄も、パパとママに振り回されてばっかり。ママはさ、オトコがいないとダメな人なんだよ。だから、やっとの思いでパパから逃げても、結局オトコに頼るの」


「それって……」


「うん。あの刺青のオトコ。あいつはパパよりも、もっとサイアクだよ。なのにママには、それが分からないみたい。まぁね、パパみたいにお酒を飲んで暴れるようなことはないけど……。でも、アタシを変な目で見てくる。その度にお兄が助けてくれて、勝てるわけないのに。アタシのせいでお兄はいつも殴られてる……。でも、ママは先に殴りかかったのはお兄だからって、いつもあいつを庇うんだよ。あんなやつを。サイアクでしょ?」


 誕生日会の時のことが耕平こうへいの脳裏に浮かんだ。

 あかねに擦り寄る刺青の男。突如激昂して殴りかかる茜の兄。そして、ただ「やめて」と叫ぶだけの母親。


 思い返してみると、異様な光景だった。少なくとも耕平の日常には決して存在しない光景。けれど、茜にとっては日常となっているであろう光景。


「──アタシ、もっと耕平とたくさん遊びたいな」


 耕平の家の前で、茜はそう呟いた。まだ昼前だ。本来なら遊ぶ時間はまだたくさんある。でも『なら、今日はうちで遊ぼうよ』とは言えなかった。

 明言こそしていなかったが、茜の父親は茜にすぐ帰るよう促していた。無視して遊ぶことはできるのかもしれない。けれど、それをするとどうなるのか。想像できない耕平ではなかった。助けを求めるような茜の呟きに「うん」と浅くうなずくことしかできない。


「あら? おかえりなさい。いやに早いじゃない」


「ただいま」と玄関を開けると、エプロン姿の耕平の母親が出迎えた。


「うん。茜お姉ちゃんが送ってくれた」


「そうなの? うちで遊ぶの?」


 耕平は何も知らない母親の質問に少しイラつき、俯いてしまう。

 母親は耕平から玄関の外に立つ茜へと視線を移す。茜の顔が、Tシャツの袖から伸びる腕が、そしてスカートの裾から伸びる脚が、傷や痣にまみれているということにすぐに気がついたようだった。一瞬、息を詰めるような間があった後で

 

「とりあえず、上がっていったら?」


 と優しく言った。

 茜は困ったように笑って、けれど足を前に出すことはしなかった。かと言って、帰ろうともしない。

 本当は帰りたくないのだ。遠慮しているのかもしれない。耕平は以前茜が言った『耕平のママは迷惑に思ってるかもね』という言葉を思い出した。


「いいから。──ね?」


 そんな茜の様子を見た耕平の母親は、サンダルを引っ掛けると外に突っ立ったままの茜の後ろに周る。そして、そっと茜の背中を押した。

 茜はまるでそうされることを望んでいたかのように抵抗することなく、されるがまま、家に入った。


 ダイニングテーブルに茜と耕平の二人で腰掛ける。茜は耕平の向かい、いつも耕平の父親が座る席に座っていた。きれいに片づけられたテーブルには麦茶が置かれた。


「ほら、シャーベットだよ。二人で食べなさい」


 少しして冷凍庫から母親が出してきたのは、ゆずシャーベットだった。耕平の母親の実家に行くと、決まってお土産にもらうものだった。

 そのまま持ち帰っては融けてしまうしまうからといつも保冷バックを渡してくれる大好きな祖母の顔は場違いに耕平の脳裏に浮かぶ。


 耕平と茜は黙ったまま、それを口に運んだ。一口頬張ると、ほのかなゆずの酸味が口いっぱいに広がった。耕平は甘いアイスキャンディの方が好きだったが、この日はゆずシャーベットをひときわ美味しいと思った。

 さほど暑くはないからか、冷たさよりもゆずの風味の方が強く印象に残る。耕平は意識してゆっくりとゆずシャーベットを口に運んだ。

 食べ終わってしまったら茜が帰ってしまう。そう思うといつまでも食べていたかった。


「茜ちゃん。困ったことがあったら、おばちゃんに言うんだよ」


 ふいに耕平の母親が言った。

 茜はなにも応えなかった。ただ黙って、機械のようにゆずシャーベットを食べ続けている。

 やがて、耕平も茜も全て食べ切ってしまった。


「それじゃあ、アタシはそろそろ帰るね。おばさん。ありがとうございました。ゆずシャーベット美味しかったです。アタシ、きっと今日のこと一生忘れないと思います」


 きちんとした敬語で礼を言う茜を、耕平は何とも言えない気持ちで眺めていた。大袈裟すぎるような感想も、傷だらけだからか不思議と違和感がない。


「そう? うちならいつでも来てくれていいからね。また遊びにいらっしゃい」


 茜は黙って曖昧に顔を傾ける。


 耕平は玄関の外まで出て茜の背中を見送った。小さくなっていく背中を見つめながら、いつまでも口の中に残るゆずシャーベットの味を感じていた。

『また明日、遊ぼうね』と約束するのを忘れていた、と気がついたのは、茜の姿が完全に見えなくなって少ししてからのことだった。

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