茜の秘密(三)

 目の前のあかねは、目を見開いたまま固まっていた。そして、固まったままにわかに震え出す。


「ごめんなさいっ!!」


 真っ先に茜が発した言葉は、謝罪の言葉だった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


「茜。パパはお友達が来てるのか? って訊いてるだけだよ?」


 いつの間にそこにいたのか、耕平こうへいの後ろに立っていた男は、茜の父親のようだった。優しい声と茜が繰り返す謝罪の言葉が不釣り合いだった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


「謝ってばかりじゃ、分からないじゃないか」

 

 壊れた機械のように謝り続ける茜に、半ば呆れたように父親は言った。

 耕平には何が起きているのか分からなかった。茜のどこか怯えたような声と表情を見ていると、何もせずに見ているだけというわけにはいかなかった。茜と茜の父親を交互に見比べて、茜を背に父親の前で両手を広げて立つ。

 そして、言った。


「茜お姉ちゃんをいじめないでっ!!」


 自分でも驚くほど大きな声だった。


「僕が茜を? バカ言っちゃいけないよ。娘をいじめる父親なんかいないだろう? 君はなにか勘違いをしているよ」


 茜の父親は大袈裟に手を広げる。その瞬間、ビクッと茜の身体が震えるのを背中越しに感じた。


「でも、茜お姉ちゃんは怖がってるよ」


「茜が? 怖がる? ──あぁ、茜は元々ちょっと臆病な性格なんだ。だから、怖がっているように見えるかもしれないけれど、実のところそんなことはないんだよ」


 ギュッと耕平のTシャツの背中を掴む感触があった。

 嘘だ。嘘に決まっている。児童公園でひとまわりもふたまわりも身体の大きな六年生に臆せず立ち向かっていった茜が臆病なわけがない。

 耕平は嘘を吐かれたことと、そんな嘘が通じると思われたことに腹が立った。


「茜お姉ちゃんは、お父さんに叩かれるって言ってた。人のことを叩いちゃいけませんって、ぼくのお母さんも先生も言ってた。でも、おじさんは叩くんでしょ?」


 耕平が食ってかかると茜の父親は一度顔を歪める。しかし、すぐにまた柔和な表情を作って言った。


「あのね、そりゃあ、理由もなく叩いたりすることは、君の言うとおりいけないことだよ。でも、僕は茜の父親だ。茜が悪いことをして、そのが過ぎたら叩くこともあるさ。君のお父さんやお母さんだって、君が悪さをしたら叩くこともあるんじゃないかな? しつけっていうやつだよ」


「ぼくのお母さんもお父さんも悪さをしたからって叩いたりなんかしないよ! それに、茜お姉ちゃんは血だらけじゃないか。……おじさんが叩いたからなんでしょ? ぼくのお母さんとお父さんは、ぼくが血だらけになるまで叩いたりなんか絶対にしないよ」


 怯むことなく耕平が追求すると、茜の父親の足がカクカクと貧乏ゆすりを始める。見るからにイラついていた。

 耕平にもそれは分かっていたが、だからといって引き下がることはできなかった。茜の父親に一言謝らせないと気が済まなくなっていた。


 茜の父親が一歩、踏み出す。そのとき、それまで耕平の後ろで黙っていた茜が口を開いた。


「パパ! アタシ、耕平を送っていくね? いいでしょ?」


 茜の父親の足がピタリと止まる。


「どうして? まだ、昼前で外だって明るいのに。茜がそこまでする必要はあるのかい?」


「それは……」


 茜の顔は自信なさそうにすぐに俯いてしまう。やはりいつもの茜とは違っていた。


「耕平はまだ一年生だから……。耕平の家は、うちから結構遠いし……。途中で迷子にでもなったら、耕平のママが心配しちゃうと思う。耕平のママはアタシと遊んでるってきっと知ってるから……そうなったら、パパにも迷惑がかかるかもしれないし……」


 尻すぼみに声が萎んでいく。茜の父親は腕を組んで少しの間考え込んだ後、にっこり笑って「分かった」と茜の頼みを受け入れた。

 茜は喜んだ様子もなく、ただ一度だけコクリとうなずく。


「耕平……行こ……」


 元気のない声で茜が強く耕平の手を引いた。

 耕平はまだ気が治まらなかったが、父親に口答えすることを茜自身が望んでいないのではないかという気がして、積極的にではないが、茜に引かれるままに玄関へと向かう。


「──茜? 分かっているね?」


 前を通り過ぎるとき、茜の父親が声をかける。茜は再び無言でコクリと小さく頷いた。


 外は、灰色だった。色のない景色だったけれど、薄暗い茜の家の中よりはいくらかマシだった。とはいえ、気分が晴れることはない。


「──耕平。ごめんね」


 しばらく無言で歩いたあとで茜は言った。

 耕平は茜が何を謝っているのか分からず、首を傾げる。それを見て茜は薄く笑った。笑窪はできなかった。


「せっかくうちまで遊びに来てくれたのに、今日は遊べないから」


「あぁ、うん……。でも、その怪我……。もしかして、さっきの……お父さんにやられたの?」


 茜は『パパから逃げている』と言っていた。お酒を飲んで暴力を振るうようになったとも言っていた。そして、現れた父親を茜は怯えた目で見上げていた。信じられないことではあったが、流石の耕平でも察するものがあった。

 茜は「うん」と頷くと空を大きく見上げる。泣いているのかもしれないと思った。


「耕平はさ、恋ってしたことある?」


 茜の言葉は唐突だった。


「初恋ってもうした?」


「初恋……?」


 耕平は茜の言っていることが理解できず、言われたことをそのまま繰り返す。


「うん。初恋。耕平の初恋っていつ? って、まだかな?」


 茶化す風でもなく独り言のように茜は言った。


「いい? 覚えておいたほうがいいよ。初恋はね、叶えちゃいけないんだよ。でも……」


「でも……?」


「ううん。なんでもない。とにかく初恋は叶えちゃいけないの。何があっても。絶対に。ダメなんだよ……」


 茜は耕平の行く先を塞ぐように立って首を傾げる。顔は不自然に歪んでいた。目にはいっぱいの涙を溜めていたが、どうにか溢れないように我慢しているようだった。

 目の前の茜は助けを求めているように見えた。けれど耕平にはかける言葉が浮かばなかった。突然、『初恋』と言われてもピンと来なかった。


「お父さんさ、昔はすっごく優しかったんだよ。お母さんとも仲良かったし。そのとき習ってたスイミングにも、いつもついてきてくれて。誕生日にはアタシが欲しいものを買ってくれるの。でも……変わっちゃった」


 耕平が黙ったままでいると茜はクルリと軽やかに前を向いて歩き出す。スカートの裾がヒラリと舞った。今更ながら茜がスカートを履いていることに気が付く。あの日、雨に濡れた日以来、茜はスカートを履くことが増えていた。

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