茜の秘密(二)
いつかと同じピンクのTシャツは血塗れだった。
「
聞こえた声はいつもどおりの
「茜お姉ちゃん。約束……」
血塗れの茜を見れば、約束どころではないと分かる。分かっているのに、目の前の異常にすぐに触れることができなかった。
「えっ? あぁ……。ごめん」
いつもは遅れてきても謝ったりなんかしないくせに、茜は目を伏せて気まずそうに謝った。普段とは違う茜の態度が耕平の不安を煽る。
「それ……って……。血……なの?」
大きくなった不安に押し潰されそうになって、思わず尋ねてしまう。
茜はバツが悪そうに顔を歪める。そして、言い訳を探すように耕平から視線を外した。
けれど上手い言い訳が見つからなかったのか、結局は茜を赤く染めているものが血であることを認めた。
「あ〜……これは……血、だね。ちょっと色々あってさ。でも、大丈夫だから。心配しないでよ。ねッ?」
そう言ってぎこちなく笑う。
よく見てみると泣いていたのか、頬にいくつかの筋ができている。それに目も赤い。ぎこちないけれど笑った茜の顔。その右頬に笑窪はできていなかった。傷だらけのせいかもしれないが耕平にはそうは思えなかった。
茜は、耕平がいくら尋ねても何があったのか、具体的に話そうとしなかった。けれど、耕平も引き下がれなくなっていた。
心配するなと言われたからといって、痣と血に染まった茜の顔を無視することはできない。何か異常なことが起きたことは明らかだった。
「どうしてそんなに血だらけなの?」
「なんで怪我をしているの?」
「痛くないの?」
「病院には行かなくて大丈夫なの?」
一度尋ねると止まらなかった。けれどいくら尋ねても茜は、「大丈夫だから」と言って笑う。
耕平は納得できなかった。目の前の茜には元気がない。見た目も態度もいつもとは明らかに違う。
『大丈夫』としか言わないこと自体がおかしい。本当に大丈夫なら『遊びに行こう』と言ってくるはずだ。けれど、茜は『大丈夫』と言うばかりで、それ以上のことを言わない。
なによりも笑窪のできない張り付いたようなぎこちない笑顔が耕平を心配にさせた。
「──あの人が、今日も来たの?」
思い切って刺青の男のことを口にすると、茜は予想していたよりも驚いたように見えた。張り付くような笑顔は消え、目を見開いている。
「あの人……って……?」
探るような視線を耕平に送る。
「決まってるじゃん。誕生日会のときにいた、あのおじさんだよ」
「あ、あぁ……。あいつね。あいつは、大丈夫」
また『大丈夫』だった。
つい最近、母親に「お昼ご飯はなにがいい?」と聞かれて「そーめんでいい」と応えると「そーめんがいい、じゃないの?」と冗談めかして指摘されたことが何度かあった。だからだろうか。耕平は「あいつは」と言った茜の言葉が妙に引っかかった。
「あいつは?」
茜は「うん」とうなずいて泳がすように視線を逸らす。その様子を見て、刺青の男以外に誰か茜を傷つける人間がいるのだと直感的に思った。
「あのおじさんの他に、だれか来たの?」
耕平の語気が強くなる。問い詰めるような口調になっていた。
耕平の強い口調に怯んだのか、それとも驚いたのか、茜は逸らしていた視線を耕平へと戻す。そして、観念したように少し俯くとボソボソと口を開いた。
「見つかっちゃったの」
「見つかっちゃった?」
耕平は、最初何か悪戯でも見つかってしまったのだろうと思った。だから、落ち込んだように見えるのだと思った。
しかし、それでは痣だらけなことに説明がつかない。それに『だれか来たのか』という耕平の質問の応えになっていない。
「うん。パパに見つかっちゃったの。アタシたちね、パパから逃げてるの」
かくれんぼか鬼ごっこだろうかと一瞬思うが、そんなわけないとすぐに思い直す。けれど、かくれんぼの他に父親から逃げる理由が思いつかない。
「うちのパパさ。ちょっとおかしくなっちゃってて。昔はそんなことなかったんだけど……。仕事がさ、無くなっちゃってから、お酒ばっかり飲むようになっちゃって。それで、ママとかお兄とか……アタシのことも……叩いたりするようになっちゃって……」
話すうちに声が震えていく。茜の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。耕平は声を発することができなくなっていた。
「それで……ママが逃げようって……。それでここに引っ越してきて……。でも、見つかっちゃったの……パパに……見つかっちゃったの」
父親に見つかってしまうことが何を意味するのか、すぐには理解できなかった。ぼんやりと『叩いたりするようになった』という言葉が浮かび上がる。
それと同時に誕生日会のことを思い出す。刺青の男が振るう拳。それが打ち付けられる音。
そして──、それを見ている茜。殴られ蹴られる兄をただ、見ていた茜。助けようともせず、逃げ出した茜。
耕平は確信した。茜の日常には暴力があったのだ。それも昨日今日のことではない。おそらくは、今よりもっと小さい頃からずっと。
「お父さんは、今どこに?」
やっとの思いで口から出たのは、そんな間抜けな言葉だった。
ふっと上がる茜の顔がスローモーションに見える。耕平の目と合った茜の視線は、ゆらりと横、そして上へとズレる。それと同時にその目は大きく見開かれていった。
「──茜。お友達か?」
突然、背後から大人の男の声がする。それは、不気味なほど優しい声だった。
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