茜の秘密(一)
連日続いていた猛暑日から一転、肌寒い朝。
家を出る前、母親が耕平に声をかけた。いつもは昼ご飯を食べてから出かけるのに、午前中の早い時間に家を出ようとしたからだろう。
最近は出かける前に「どこで誰と遊ぶの?」とは訊かれなくなっていた。耕平の方もわざわざどこに行くとか、誰と遊ぶとか、そんなことを母親に告げずに家を出るようになっていた。
それが嬉しいような寂しいような不思議な気持ちだった。
茜が待ち合わせの時間として指定したのは朝の九時だった。夏休みの宿題をすべて終わらせてしまっていた耕平は、ほとんど悩むことなく茜の提案を承諾していた。
茜はいつも遅刻してくる。それが分かっているから早く着いても仕方がない。けれど、約束の時間に遅れるのは耕平の性に合わなかった。
耕平は遅れたら申し訳ないと思うのに、茜の方は遅れても少しも悪びれない。むしろ、「早すぎる」と文句を言うことさえあった。けれど、耕平は腹立たしいとは思わなくなっていた。茜の奔放な性格をむしろ羨ましいと思っていた。
耕平が時間どおりに待ち合わせ場所に着くと、やはり茜はまだ来ていなかった。
木陰のベンチに腰掛けて茜を待っていると、風がふっと吹き抜けた。やはり少し肌寒い。あまりの気温の変化に、耕平は、夏がもう終わってしまったのだと思った。
秋の香りがする。
何か上着を着て来ればよかったと耕平は少しだけ後悔した。
三十分ほど待った。
茜は遅刻の常習犯だったが、それでも三十分以上遅れてくることはなかった。茜が待ち合わせに来なかったのは、探偵ごっこをした後の数日だけだった。そのあと、久しぶりに現れた茜は耕平を誕生日会に誘い、そして──。
胸騒ぎがした。
あと五分だけ待とう。あと五分以内に必ず来る。そうやって何度か自分に言い聞かせているうちに、待ち合わせの時間から一時間が過ぎていた。
いよいよおかしいと思った耕平は、いてもたってもいられなかった。
以前、茜が来なくなった理由を具体的に聞いたわけではない。しかし、その間に刺青の男が茜の家に現れ、入り浸るようになっていた。
ならば今日も──。
そう思うと自然と耕平の足は茜の家に向かっていた。ちゃんと場所は覚えている。
待ち合わせの場所から十数分歩いたところに茜の暮らすアパートはあった。以前訪れたときと違って洗濯機の中は空で自転車はなかった。
玄関の前に立つ。室内は静まり返っていた。
勢いに任せてやってきたはいいが、留守なのかもしれない。もしかしたら、急な用事ができて来られなくなっただけかもしれない。
まだ子供である茜と耕平は、緊急時の連絡手段を持ち合わせていなかった。
ふと、大きくへこんだ玄関ドアに目が止まる。まるで、何か硬いものがぶつかったように大きくへこむ玄関ドア。以前はあんな風にへこんでいなかった。
さらによく見るとドア横のインターフォンが外れかかっていた。
ドクンと耕平の心臓が跳ねる。
外れたインターフォンを押してみる。しかし、壊れているのかなんの反応も示さなかった。
何か得体の知れない胸騒ぎが、灰色の不安とともに沸々と耕平の胸に湧き上がる。耕平自身も胸騒ぎと不安の正体がなんであるのか、はっきりとは分からなかったが、それでも何かがおかしいと思った。
脳裏に浮かんだのは、誕生日会のときに目の当たりにした暴力だった。振り上げられた拳。その拳が柔らかな頬にぶつかって鈍く鳴る音。
思い出すと怖くなる。茜に会いたいと思うけれど、大きな声を出すのは憚られた。それでも勇気を振り絞っておそるおそるドアノブに触れると、ドアは音も立てずにあっさりと開いた。
「茜……お姉……ちゃん?」
ゆっくりと足を踏み入れる。
玄関にはいくつかの靴が無造作に散らばっていた。見たところ大人の靴は、女ものが一つだけ。茜の母親のものだろう。
その他は、男ものの靴のようだったが、大人が履くには少しサイズが小さいように思えた。茜の兄のものだろう。茜の兄と茜のものだと分かるとホッとして、中に入る足が少しだけ軽くなる。
相変わらず薄暗い茜の家は、玄関から奥を見通すことはできなかった。
「茜お姉ちゃん? 待ち合わせ。九時だったよね? いないの?」
以前来たときのようにタバコの匂いはしない。あの男はいないのかもしれない。たったそれだけのことで恐怖心が和らいでいき、耕平の足を躊躇させるのは、他人の家に勝手に入り込む罪悪感だけになりつつあった。
その罪悪感も、茜の無事を確認するためだと思うと徐々に薄れ、だんだん気持ちが大きくなる。今度は大声で叫んでやろう、と大きく息を吸い込んだとき、奥の方で何かが動くのが見えた。
「茜お姉ちゃん!?」
思わず声をあげる。人影は、薄闇の中からゆっくりと現れた。
それは茜だったが、すぐには茜だと分からなかった。茜の顔は血だらけで、ところどころ青く痣になっていたり、痛々しく赤く腫れ上がったりしていた。
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