雨と泪のねこじゃらし(三)
幼い
「前に耕平と探偵ごっこしたこと、あったでしょ? あのとき後を付けてたホシ。あれって、あいつだったんだけど……分かった? それに一緒にいた女の人は……アタシのママ」
刺青の男のことだろう。女の方が茜の母親だとは気が付かなかったが、
「あいつさ、あのすぐあとでうちに来るようになってさ。最初は、まさかって思ってたんだけど……。お兄と一緒にママを問い詰めたら白状したの。彼氏なんだって。いい歳して彼氏なんて……しかも、あんな見るからにロクでもないやつ……気持ち悪いよ……」
茜は何か苦いものを口に含んだように顔を歪ませる。
「それにさ、あいつ。アタシに……」
そこで茜の言葉は途切れた。
耕平は先を促すようなことはしなかった。かといって、茜が言おうとしていることが分かるわけでもなかった。
自然と茜を黙って見つめる形となる。それが茜に何か勇気のようなものを与えたらしい。意を決した茜は、堰を切ったようにさらに語り出した。
「あいつ、アタシの身体を触るの。最初はさ、ただの偶然だと思ったんだ。頭を撫でたり、ちょっと肩に手を置いたりするだけだったから……。でも……。でも、だんだんそれだけじゃなくなってきて。意味不明に抱きついてきたり、ご飯食べるときなんかアタシを膝の上に乗せたがったり。それに今日みたいに……ね。ホント、気持ち悪い」
耕平は、自分の母親のことを思い浮かべていた。茜が告げたことは、そのほとんどが耕平も母親にされたことのあることだったからだ。耕平は、母親のそんな行動を気持ち悪いと思ったことはなかった。むしろ、母親に抱きしめられたら安心できたし、触れられると安らぐことができる。
けれど、あの刺青の男がそれをしているところを想像してみると、やはり茜の言うとおり気持ち悪いと思った。
「あいつさ、ヘンタイなんだよ。ショーニセイアイシャっていうんだって。お兄が言ってた。だから近づくなって。でも、近づくなって言われたって、家にいるんだもん。あんな狭い家の中で、近づかないなんて無理だよ。……どうしたらいいのよ」
小児性愛者という言葉を耕平は知らなかった。けれどヘンタイの方は分かる。
耕平の周りでは滅多に使われることのない言葉だった。使われるときはそのほとんどが悪口だった。女子が男子に向けて言うことが多いように思う。
プールの授業中、女子の方をジロジロ見ていた男子が女子の集団から「ヘンタイだ。ヘンタイだ」と囃し立てられているところを見たことがある。なんとなくエッチなことをする男子に向けられる言葉であるようだった。
それはあの刺青の男にも当てはまるのだろうか。耕平にはよく分からなかった。
ペタンと茜は道路脇のベンチに腰を下ろす。スカートの裾を直すとき、太ももの痣がチラリと覗いた。
耕平はやっぱり蝶々みたいで綺麗な模様だなと思ったが、茜の太ももをマジマジと見ている自分はヘンタイなのかもしれないと気がついて、慌てて視線を外す。
「あ、これ。見えちゃった?」
しかし、茜は耕平の視線に気がついたようだった。自らスカートの裾をズラして痣を露わにする。
「えっ? えっと……ごめん。その……じっと見るつもりはなくて……あの……蝶々みたいで綺麗だなって思ったから……だから……その…………」
耕平はしどろもどろになりながら言い訳をする。茜にヘンタイだと思われたくなかった。ヘンタイだと思われたら、あんな風に顔をしかめて耕平のことを見るようになってしまう。そんなのは嫌だった。
「ちょっと、待ってッ!! 今、なんて?」
茜は耕平の言い訳を遮るようにして声を荒げた。
「え……? えっと……だから……その。じっと見るつもりはなくって……」
茜の言葉の勢いに耕平はますます動揺してしまう。怒っているのかもしれないと思った。
「そうじゃなくってッ! 耕平がじっと見てたのは分かってるよ。そうじゃなくて、そのあとッ!」
耕平は、違うのにと思いながらも茜が怒っているわけではないと分かって幾分安心する。しかし、そのあとと言われてもピンとこなかった。
「そ、そのあと……?」
「だから! アタシのこの痣を見て、どう思ったって?」
茜は、大胆にガバッとスカートを捲る。そこまでしなくても見えるのに。目のやり場に困ってしまう。
耕平は、ヘンタイと思われたくない一心で茜の太ももから目を逸らす。
「蝶々……みたいで、綺麗だなって」
顔を背けながら耕平はボソリと告げた。
「それッ! この痣。気持ち悪くないの? 変じゃ……ない?」
茜の言葉に耕平は再び顔を上げる。そこには少し照れたような茜の顔があった。
気持ち悪いだなんて少しも思わなかった。蝶のような形はどこか儚げで、耕平は本気で綺麗だと思っていた。だから、茜の言う気持ち悪いという感覚が分からなかった。
「全然、気持ち悪くなんかないよ。すごく、綺麗で可愛いと思う」
だから、耕平は素直にそう応えた。
「ホントにッ? ねぇ、ホントにそう思うの?」
どこか必死な様子で尋ねる茜に戸惑いながらも、耕平は深く頷く。
茜はフッと力が抜けたようだった。スカートを捲り上げていた手が緩む。まだ乾ききっていないスカートは重力に従って、ペタッと茜の太ももを覆った。
「ありがとう」
ややあってから茜はそれだけ言うと立ち上がる。そして、
「耕平って、おかしなやつだけど、いいやつだね」
と言って笑った。
また右側にだけ笑窪ができる。茜色の空を背に浮かぶその笑顔に吸い込まれそうになる。
茜のことを見ていると胸がドキドキして、少し苦しかった。けれどその苦しさは不思議と不快ではなかった。そして、改めて、茜のことを守りたいと使命感のような感情が沸き上がった。
さっき濡れたばかりのアスファルトは八月の日差しを受けて、もう乾き始めている。道端のねこじゃらしは、いくらか水分を残しているようでキラキラと輝いている。ふっと吹く風がじっとりとした空気とともに、晩夏の香りを運んで耕平の鼻先をかすめていく。
耕平の胸には名前の付けようがない感情が浮かんでいた。耕平はまだその名前を知らなかった。
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