雨と泪のねこじゃらし(二)

 目の前のあかねは溺れているようだった。

 あの日、初めて茜に会った時、耕平こうへいがそうであったように今、茜は溺れている。それならば、今度は自分が茜を助けなければ。あの日、茜がそうしてくれたように。


「茜お姉ちゃん。ぼくが茜お姉ちゃんを守るから。絶対に守るから。だから、お願い。泣かないで」


 耕平の脳裏にあるのは自由奔放で、多少強引なところがあって、捕まえたと思うとスルスルと逃げてしまう掴みどころのない、そんなねこじゃらしみたいな茜の姿だった。耕平は、ねこじゃらしが好きだった。

 あの日、水路から掬い上げることのできなかったねこじゃらしは、どうなったのだろうか。ふいにそんなことを思う。そして、掬い上げられなかったことを今更ながら激しく後悔した。と同時に、次があったら必ず掬い上げると漠然と決意したことを思い出す。


 右側にだけ笑窪ができる茜の笑顔が見たいと思った。


 耕平は茜のすぐそばまで歩み寄ると、そっと茜に抱きついた。

 本当は母親がしてくれるように、包み込むように抱きしめたかったのだが、茜よりも身体の小さい耕平では母親のようにはいかなかった。それでも精一杯腕を伸ばして、茜の身体にしがみつくようにして抱きつく。

 茜は心なしか震えているようだった。


 しばらくして見上げた茜は、もう声を上げてはいなかった。さっきまでと同じように上を見上げたまま、包み込むように耕平の肩に腕を回す。茜の温かな体温が感じられた。


「大丈夫だから。怖がらなくてもいいんだよ」


 耕平が怯えた時、母親はよくそう言って耕平を慰めてくれた。母親からそうされると、どんなに怖くて不安でも不思議と安心することができる。深く考えたわけではないが、耕平はそんな母親と同じ言葉を口にしていた。

 茜にも効果があるだろうか。自分が母親と同じことをしても効果があるだろうか。

 分からなかったが、耕平は母親がしてくれるのをそのまま真似して茜に告げる。すると、茜の身体がはっきりと分かるほど小刻みに震え出した。そして、


「ふふふ……あははは……」


 と今度は大きな笑い声が響く。泣き止んでもらいたいと思っていた耕平だったが、あまりに突然の変化に戸惑う。壊れてしまったのではないかと不安になる。

 茜はひとしきり声あげて笑うと、ゆっくりと耕平の身体から離れた。


「耕平。キミ、カッコいいじゃん!」


 右側にだけ笑窪ができる。

 どの辺がカッコいいのか分からなかった耕平は、けれど嬉しくてにっこりと微笑み返す。何より、茜が笑顔を見せてくれたことが嬉しかった。


 気が付くといつのまにか雨は上がっていた。黒々とした雲の隙間から覗く日差しが空を茜色に染めていく。

 濡れたアスファルトの脇で突然の雨に穂を濡らしたねこじゃらしが、風に揺れながら真っ直ぐ空に向かって生えていた。


 茜は思い出したように腕を空に伸ばして、背伸びをするようにぐっとつま先で立った。びしょ濡れになったスカートが張り付いて太ももが露わになる。

 耕平の目は茜の太ももに釘付けになった。見てはいけないような気がしながらも、目が離せなかったのは、そこになにか痣のようなものがあったからだった。赤ん坊の手のひらほどの大きさの痣を、耕平は蝶のようで可愛いなと思った。

 痣は茜が背伸びを止めるとスカートの向こうに隠れてしまった。


「あ〜ぁ……。びしょ濡れになっちゃったねッ!」


 茜はさっきまで大声で泣いていたのが嘘のように明るく言った。耕平には茜の表情と天気がつながっているように思えた。茜の涙が雨になって降り注いでいたのではないかと錯覚する。そう思うと濡れているのもそんなに悪くはないように思えた。


「うん。びしょびしょ。なんか、服が張り付いて気持ち悪い」


 耕平は、なぜ茜が泣いていたのかが気になった。けれど、面と向かってそれを尋ねることはできそうもなかった。尋ねてしまうと、またあの悲しそうに歪む茜に戻ってしまうような気がしていた。

 また雨が降り出すんじゃないかと思った。それだけは絶対に避けたかった。濡れるのは構わないが雨に打たれるのはやっぱり嫌だった。


「そういえば、初めて会ったときもこうだったよね」


 言われてみれば、あの日水路から上がったときも、二人は今と同じようにずぶ濡れだった。あのとき二人の身体を濡らしたのは、汚く臭い水路の水だったが、今は雨と茜の涙だった。


「──あいつさ。ママの彼氏なんだって」


 茜は耕平の知りたいことを見透かしたように突然、前触れもなく告げた。気まずそうに笑う茜の右頬にはやはり笑窪ができていた。

 

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