雨と泪のねこじゃらし(一)
街の景色。うるさく鳴く蝉の声。どこまでも高い夏の空とそこに浮かぶ白い大きな雲。そのすべてが後ろへ流れていく。
どこをどう走っているのか、耕平にはもう分からなくなっていた。もしかしたら先を行く茜も分かっていないのかもしれない。
とにかくあの場所から逃げたい。それもできるだけ遠くへ。そんな思いが、熱くなった手を通じて伝わってくる。
耕平は、人が殴られるところを初めて目の当たりにした。耕平にとって暴力は、テレビの中の出来事で、しかも正しい側が悪を駆逐するためにやむを得ず行使するものだった。
けれど、茜の家で目の当たりにした暴力は違っていた。
茜の兄と刺青の男。耕平には茜の兄の方が正しいように思えた。先に殴りかかったのは茜の兄だったが、そのきっかけとして先に茜の兄のプレゼントを馬鹿にしたのは、刺青の男の方だ。
茜の家で目の当たりにした暴力は、児童公園で
あのときの陽には躊躇があったし、おそらく本気で殴ろうとは思っていなかったはずだ。だからこそ、耕平は陽の拳を未然に防ぐことができた。
けれど、さっきはそんな余裕がなかった。「あっ」と思った時には鈍い音とともに茜の兄は吹き飛んでいた。
思い出すと身が竦むようだった。陽と刺青の男とは大人と子供だから、その差はもちろんあるだろうが、耕平は刺青の男を心底怖いと思った。
茜にとっては、あれが日常なのだろうか。ふとそんな考えが耕平の頭に浮かぶ。思えば、児童公園のときも茜は少しも動揺していなかった。
顔を上げると前を走る茜の長い髪が揺れている。表情は見えない。汗のせいか、スカートが茜の足にへばりついてる。
どれくらい走っただろう。
気が付くと、蝉の鳴き声が止んでいた。それに辺りが暗くなっていた。まだ、日が暮れるような時間ではない。そう思った矢先、耕平の鼻先になにかが触れた。生暖かいそれは雨粒だった。
鼻先に触れた雨粒は、次第にその数を増していき、ポッポッポッとアスファルトに不規則な水玉模様を作っていった。遠くでゴロゴロと地響きのような音が鳴っている。
「茜お姉ちゃん。雨。振ってきたみたいだよ。それに雷も……」
耕平が言うのと同時に、ピカッと空が青白く光る。数秒遅れてドンっと腹の底に響くような音が鳴った。耕平は思わず身を竦めた。
対する茜は特に反応を見せず、そして振り返ることもなく、けれどゆっくりと歩を緩めた。
「ごめん……」
下を向いた茜の口から溢れたのは、短い謝罪の言葉だった。
耕平は、ふるふると首を振る。謝られる理由などない。悪いのはあの刺青の男だ。
ポツポツと降り始めた雨は、あっという間にその音を変える。ザーッと耳をつん裂くような音になるまで、さほど時間はかからなかった。
茜の背中は、Tシャツが張り付いて体の形を露わにしている。
指先から、そしてスカートの裾の先から、雨粒がポタポタと溢れ落ちる。空から降る雨粒なのか、茜の体から落ちる雨粒なのか分からない。
雨はちっとも冷たくなかった。それどころか、降られる前よりも暑くなったように感じる。
ふいに茜の手がギュッと握られた。そして、ゆっくりと振り返るとなにかを口にした。けれど、豪雨の音にかき消されてその声は耕平には届かなかった。
耕平は茜の言葉を聞き取ろうと一歩を踏み出す。
手が届くほどの距離に近づいたところで、茜が泣いているのかもしれないと気がついた。雨に打たれた顔は水浸しだった。涙なのか雨なのか区別がつかない。けれど、赤く充血した目は、雨のせいではないように思われた。
「茜……お姉ちゃん……?」
うまく言葉が出てこなかった。
なぜ茜は泣いているのか。せっかくの誕生日なのに、なぜ茜が泣かなければならないのか。
あの刺青の男のせいなのか。そもそもあの男は何者なのか。茜とはどういう関係なのか。
茜の母親はなぜあんな男を家に招き入れているのか。せっかくの茜の誕生日だというのに。なぜ目の前の茜が泣かなければならないのか。
耕平の頭の中をぐるぐると同じことが巡っていく。
茜は、少し顔を俯けていた。その視線の先には黒く染まったアスファルトしかない。
「茜お姉ちゃん!!」
耕平がもう一歩踏み出した時、茜は顔を上げた。耕平の顔を素通りして天を見上げるように高く上げた顔は、強く打ち付ける雨を受け止める。その顔は歪んでいたが、打ち付ける雨のせいではなかった。
顎を上に向けて、口を開け、そして――、
「うわぁぁぁぁぁぁあああん……」
大声を上げて泣いた。堰き止めていたなにかが壊れてしまったかのように、叫ぶように泣いた。腕は下に伸ばしたまま、手は生まれたての赤子のようにギュッと握りしめている。
耕平は呆気に取られてしまった。
年上の子が大声を上げて泣いている。見てはいけないものを見てしまったような罪悪感と、茜の助けになりたいと思う正義感が幼い胸の中でないまぜになる。
「ぼくが、なんとかするよ」
気がつくとそう告げていた。
茜がなにに苦しんで大声で泣いているのか、そもそも苦しんでいるのかさえ分からないのに、自然と溢れた言葉だった。
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