児童公園(一)
夏は今が本番だとばかりに鳴く蝉の声が遠く聞こえる。
一息ついたところで、見計らったようにインターフォンが鳴った。
「はい、はぁ〜い!」
真っ先に応対したのは、耕平の母親だった。通話ボタンを押さなければ相手には聞こえないのに、愛想のいいよそ行きの声を作るのはいつものことだ。
「
声の主は
毎回『お忙しいところいつもすみません』などと、大人がするみたいな一言を添えるあたりは、やっぱりお姉さんなんだなと耕平は思う。そんな挨拶をする友達は、耕平の同級生にはいない。
それどころか、きっと友達の親に敬語を使う同級生もいないだろう。当の耕平だって、だれかに敬語を使うことはほとんどない。思い当たるのは、先生に叱られたときくらいのものだ。
耕平にとって敬語は、だれかに怯えたときに使うものだった。
「あらあら、茜ちゃん。また来てくれたの? いつもありがとうね。今開けるから。ちょっと待っててね」
インターフォン越しに応えながら、母親は耕平を振り返って笑った。
「茜ちゃん。今日も来てくれたみたいだよ。ここのところ毎日だね。どうする? 遊びに行く? 宿題やっちゃってからにする?」
耕平は少し考えたが、宿題はいつでもできると思って茜の元へと向かうことにした。
広げていた計算ドリルを閉じて玄関に向かおうとすると、母親から待ったがかかる。
「日焼け止めと虫除け。塗ってからだよ。忘れないでね」
四、五分くらい経って玄関を開けると、湿気をともなった熱気が耕平の頬を撫でる。
外は相変わらず暑かった。連日続く猛暑日が、ついに観測史上最多を更新したと今朝のニュースでやっていた。
うんざりするような暑さの中、茜はカーポートの日陰にたたずんていた。
紺色のデニムパンツにピンクのTシャツ、それから野球帽を被っている。よく見たらスニーカーは男児が履くようなヒーローの姿がデザインされているが、耕平の知らないヒーローだった。後ろ姿だけ見たら、髪の長い男の子かと思うような格好だ。Tシャツの色だけが唯一女の子を思わせていた。
「お母さん。こんにちはッ」
茜は玄関が開いたことに気が付くと、まず母親の方に頭を下げながら元気よく挨拶をする。そして、「耕平も。やっほ」と小さく付け加えた。
Tシャツの首元が汗で濡れているが、暑い中待たせたことを怒っている様子は全く無い。
「茜ちゃん。いつも悪いわね。今日もこうちゃんをよろしくね!」
「はい。ちゃんと六時までには連れて帰りますから」
耕平が水路に落ちた日、結局門限には間に合わなかった。
耕平の母親は、耕平が危惧したほどは怒らなかったが、それは茜の存在によるところが大きかった。あの日、耕平の母親が怒る気をなくすほど頭を下げた茜は、以来、耕平を遊びに誘うときには決まって門限までに連れて帰ると約束している。
おかげで、耕平の外遊びが禁止されるようなことにはならなかった。
「うん。ありがとう。でも茜ちゃんもあまり遅くなったらおうちの人が心配するでしょ? だから、六時と言わず、少し早めに帰っておいで。ね?」
「うちは別に大丈夫ですけど……。でも、分かりました」
「あ、そうそう。これ。よかったら二人で食べて」
母親は、茜の言葉にうなずきながらアイスキャンディを渡す。受け取った茜は嬉しそうに微笑むと丁寧にお礼を言った。
耕平の家から少し離れたところに木陰を見つけて二人並んで腰掛ける。
耕平の手にも茜の手にも、もらったアイスキャンディが握られている。かじるとシャクという涼しげな音とともに口の中が冷たくなる。少し遅れてほどよい甘みが口いっぱいに広がった。
母親からもらったアイスキャンディを二人とも、もう半分ほど食べてしまっていた。残りの半分を一気に頬張って、茜は「美味しかった」と笑った。
右側の頬にだけ笑窪ができる。吸い込まれそうな笑窪だった。
「お母さん。アタシが来るの迷惑がってるかもね。明日からは、ここで待ち合わせて遊ぶことにしよっか。アタシ、毎日耕平んちのインターフォン鳴らすじゃん? そういうのってさ、大人は迷惑に思うもんなんだよ」
「どうして迷惑なの?」
耕平には茜の言うことが理解できなかった。
「う〜ん。アタシみたいな、どこの子かも分からない子が毎日誘いに来たら普通に迷惑じゃん。もしかしたら、ホーチゴって思われてるかも」
「ホーチゴってなに?」
「親から相手にされなくて、毎日色んなうちに押し掛ける子。親がご飯作ってくれないから、友達の家で食べたり、その子の家のおもちゃを自分のものみたいに使ったり、酷い子は盗んじゃったりするんだって。押し掛けられた子の親からしたら、絶対迷惑だよね」
「茜お姉ちゃんは、そんなことしないよ?」
「う~ん、まぁね。でも……。まぁいいや。とにかく、迷惑に思われてるかもしれないし、これから思われるかもしれないから、明日からは待ち合わせにしよう。これからは、この場所。ここに一時に集合ねッ! この木が目印。お昼ご飯食べたらすぐ。いい?」
茜は問答無用で決めてしまった。
妙に大人ぶった説明を聞いても、耕平には茜の言ったことが分からなかった。
耕平の母親は、茜の存在を迷惑に思うどころか、ありがたがっているはずだ。一人で外に出すのは心配だが、茜のように年上の子が面倒を見てくれているのならいくらか安心できる。
数日前だが、『茜ちゃんがいてくれて助かるわ』と言っていたのを耕平は確かに聞いた。あれはきっと本心だと思う。いつも嘘を吐いてはいけませんと耕平に言う母親が嘘を吐くわけがない。
だが、いずれにしても茜が待ち合わせにしようという以上、耕平はそれに逆らうことはできなかった。
アイスキャンディを食べ切ると、茜はベタベタになった木の棒を丁寧に袋に戻す。そして、立ち上がると捨てる場所を探してキョロキョロと辺りを見回した。だが、めぼしいゴミ箱が見つからず、袋を持ったままゆっくりと座った。
行き場所を失ったアイスキャンディの袋がぶらんぶらんと回る。
「それでさ! 今日は何しよっか。耕平は何がしたい?」
茜から発せられるお決まりのセリフだった。訊かれると耕平は困ってしまう。やりたい遊びはたくさんあったが、二人でできることとなると限られてくる。
昨日は『街中探検』だった。特にルールや勝ち負けがあるわけでもなく、ただただA市を探検するだけだった。
最初は、何が楽しいのだろうと思っていたのだが、茜は耕平の知らない場所をたくさん知っていて、行ったことがない場所や一人では怖くて入れない場所に入ったりするのはとても楽しかった。
その前の日は──、『キレイなもの探し』だった。
どちらも茜の提案だ。さらにその前の日も、その前の日も。いつも茜の提案で遊びが決まる。だから、今日こそはと思って
「児童公園に行きたい」
迷わず応えていた。
茜と二人でできて楽しいと思える遊びは思いつかなかったが、児童公園に行けばたくさん子供がいるはずだ。見知った友達もいるかもしれない。大勢でなら、できる遊びは格段に増える。それになにより、耕平はまだ行ったことのない児童公園に行ってみたかった。
茜は「分かった。行こう」と言って、耕平の手を引いた。耕平は、若干不満そうな茜の表情が気にはなったが口にはしなかった。
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