危険な水路(三)

 耕平こうへいが顔を上げるとあかねは笑っていた。


「キミ。もしかしてお母さんとの約束を破ったことを後悔してるの?」


 耕平は、自分の気持ちを言い当てられたことが不思議で、でも、どういうわけか嬉しかった。茜の表情につられて頬が緩む。


「どうして、分かったの?」


「どうしてだろう。きっとアタシも同じような気持ちになったことがあるからかもね」


 茜は耕平の問いに少しだけ考えるそぶりを見せたが、さしたる根拠もなさそうにあっけらかんと応える。

 けれど耕平の胸にあった罪悪感は、茜の笑顔に吸い込まれるように一気に薄らいでいった。


「茜お姉ちゃんも?」


「うん。ていうか、だれにでもあるんじゃないかな? そういうこと」


「そうなの?」


「そうだよ。別に珍しいことじゃないし、キミだけが特別ってわけじゃないと思うよ。でも、そんなに泣くほど後悔してるなら、ママにちゃんと謝ったらどう?」


 耕平は反射的に首を横に振った。ちゃんと謝るためには、前提として母親に約束を破ったことを告げなければならない。

 

「ダメだよ。もうお外で遊べなくなっちゃう」


 そう言いながら、しかし、それが方便であることを耕平は自覚していた。

 一定の条件のもと、ようやく外で遊べるようになったのは事実だったが、外で遊べなくなったとしても、さほど困りはしない。

 耕平が本当に恐れているのは、母親に約束を破ったことを知られることそれ自体だった。母親に約束を破るような子だと思われるのが堪らなく嫌だし、怖かった。


 それを理解してくれているのだと思ったのに。謝ればいいだなんて、見当違いもいいところだった。

 触れたと思った茜がすぐに遠くへいってしまったような寂しさがあった。


「ふぅ~ん……。まぁ、いいや。そんなことより、キミ。名前はなんて言うの?」


 茜は、さきほどとは打って変わって、今度は耕平の切実な訴えを軽く受け流した。まるで興味を失ってしまったみたいにすたすたと歩き始める茜の背中を、耕平は慌てて追った。

 表情とともに話題や行動までもがコロコロと変わる。目の前の茜という少女は、つかみどころがなかった。


「えっ……? えっと……甘楽かんら……耕平こうへい……だけど……」


「そう。じゃあ、耕平。今からアタシと遊ぼッ!」


 勢いよく振り返った茜の温かな手が戸惑う耕平の手を掴む。グイッと強い力に引かれて体が前のめりに傾く。なんとかバランスを保って、手を引く茜の力に抵抗する。 

 引きずられるようにしてしばらく歩くと、茜は再び勢いよく振り返って意味ありげに微笑んだ。右側の頬に笑窪が浮かぶ。

 紺色のデニムパンツにラフな白いTシャツ姿、ころころと表情や話題が変わる茜は、耕平の周りにはいないタイプの女の子だった。耕平は、つかみどころのない茜をねこじゃらしみたいだと思った。


「そんなビショビショのまま帰ったら、ママに訳を聞かれるに決まってるじゃない。そしたら、どうするの?」


 耕平は、手の温かい人は心も温かいという、いつか母親が言っていた言葉を思い出していた。


 ふと辺りを見回してみると、多くのねこじゃらしが揺れていた。

 じっと見ているとまた触りたい衝動に駆られる。握ると逃げるように動くねこじゃらしの感触がまだ掌に残っていた。つかめそうでつかめない、つかめそうになるとスルスルと飛び出していくあの感触が、どういうわけか恋しくて大きく心惹かれていた。


 びしょ濡れになった服は、焼けるように照り付ける真夏の日差しのおかげもあって、遊んでいるうちにすぐに乾いてしまった。


 汚水に浸かっていたため、茜の白いTシャツには乾くと茶色とも緑色ともつかない汚れがまだらに残ってしまった。耕平の着ている服はいくらか汚れの目立たない紺色であったが、薄汚いのはだれが見ても明らかだ。

 それでも濡れているよりは、はるかにマシだった。このくらいの汚れなら、転んでしまった言えば信じてもらえるだろう。そう思うと耕平の心にも余裕ができた。


「あっという間に乾いちゃったね」


 耕平の手を引く茜の手が不意に離れる。茜はTシャツの裾を両手で持って、確認を促すように耕平に向けて広げる。

 耕平はそれを几帳面にしっかりと確認をしてから頷いた。


「でも、茜お姉ちゃんの服。汚れてるよ」


 余裕ができると、茜の方は母親に怒られたりしないのだろうかと心配になった。茜の白いTシャツに浮かぶ汚れはどう見てもヘドロによるもので、水路に入ったことはすぐにバレてしまうだろう。しかし、茜にそれを気にする様子はない。


「あぁ、これ? こんなの全然平気だよ」


 耕平の指摘を受けて、茜は自分にもよく見えるようにとより一層裾を引っ張った。そして、あっけらかんと笑った。

 

 三年生だから水路に近づいても問題ないんだ、と耕平は一人勝手に納得した。


「で、どうする? もう結構いい時間だよ? 耕平んち。門限は?」


「えっ? えっと……六時までには帰らないと……」


「えぇっ!? きっともう六時になるよッ!!」


 茜がそう言うのとほぼ同時に、市内のあちこちに設置されたスピーカーから一斉に六時を告げる《ゆうやけこやけ》のメロディが流れ始める。

 まだ昼間と変わらない明るさに油断していた。門限を守ることも外で遊ぶための条件の一つだった。


「ほ、ほんとだ……。どうしよう……」


「何してんのッ!! グズグズしない! 行くよッ! キミのうち、どっち!?」


 再び強く引かれた手に戸惑いながら、耕平は「こっち」と指をさす。


「急いでッ! もしも怒られたら、アタシも一緒に謝ってあげるから。もちろん、水路のことは内緒でッ」


 茜はそう言って走り出す。手を引かれる耕平も必死で足を動かした。

《ゆうやけこやけ》のメロディが鳴り止むと『よい子の皆さんは、うちに帰りましょう』というアナウンスが流れてくる。耕平は走りながら、茜は六時を過ぎても家に帰らなく大丈夫なのだろうかと思った。


 やかましく鳴いていた蝉の声は、いつの間にか涼やかなひぐらしの声に変わっていた。

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