危険な水路(二)

「大丈夫?」


 少女の長い髪を伝って落ちたドブ臭い水滴が、耕平こうへいの頬に触れた。


「ジンコーコキューとか、いらないよね?」


 少女は、どこかで聞いたのだろう言葉を借り物のように使った。


「危ないところだったよ。キミ、完全に溺れてたもん」 


 耕平はそこでようやく自分が溺れていたことと、少女がそれを救ってくれたことを理解した。


「ありが…………ゴホッ……ゴホゴホゴホッ」


 礼を言おうと口を開くと、まだ残っていた重たい水が気管に入る。盛大にむせてしまった耕平の上半身を、少女は優しく抱き起こし、背中をさすってくれた。

 不思議な安心感に乱れた呼吸が整っていく。


「ありがとう」


 重たい水に邪魔された言葉を、今度はちゃんと告げることができた。

 少女は一瞬、キョトンとした顔を見せたが、すぐに大きくクリクリとしたアーモンド型の目を細めて笑う。


 少女の髪はまだ濡れていた。毛先からは雫がポタポタと不規則なリズムで垂れている。


「どういたしまして。──ていうか、キミ! 泳げないのに水路になんか入っちゃダメだよ!」


 少女は耕平と目線を揃えるために膝を折って少し屈むと、耕平の頭にコツンと軽く拳を当てた。


「だって……」


 言い訳をしようとして、口ごもってしまう。少女に『泳げない』と言われたことが無性に恥ずかしかった。


「じゃあ、君は泳げるの?」


 耕平が不貞腐れたように頬を膨らませると、少女は笑った。頬の右側にだけできる笑窪が印象的だった。


「アタシ? アタシは、当然泳げるよ。スイミング習ってたからねッ!」


 手を腰に当てて、胸を張って自信満々に言う少女。長い髪が振り子のように揺れて雫が舞った。


「それと、アタシはあかね藤堂茜とうどうあかねっていうの。だからじゃなくて、茜お姉ちゃんって呼びなさいね。キミより年上なんだから」


 耕平には『君と呼ぶな』と言いながら、自分は耕平のことを『キミ』と呼ぶ。多少の不条理を感じながら、けれど不思議と反論する気にはならなかった。


「分かったよ。茜……お姉ちゃん」


 言われたとおりに呼んでみる。

 いざ呼んでみると、姉どころか兄、弟、妹のいずれもいない耕平は、妙な照れ臭さを感じた。


「よろしい。ところで、キミ、一年生?」


「うん。そうだよ」


 茜は膝についた細かな砂利を払いながら、もう一方の手を耕平に差し出す。耕平が恐る恐るその手を取ると、無遠慮にグイッと引っ張った。茜の手は水から上がったばかりだというのにやけに温かく、柔らかかった。

 並んで立つと頭一つ分茜の方が大きい。茜の方がいくらか年上なのだと、いやでも思い知らされる。


「桜ヶ丘小?」


「うん。桜ヶ丘小学校」


 耕平の住むA市は、冴えない地方都市ではあったが、東京のベッドタウンとしてそれなりに機能していた。

 東京までは少し距離があるが、小さな子を持つ比較的若い夫婦が続々と転入してきている。彼らは、最近できた新興住宅地にマイホームを持つ。

 耕平の家もそのうちの一つだった。耕平の住む家の周りには、似たような家庭がたくさんあった。


 少子高齢化が進む世の中だが、行政の努力もあってかA市は子供の数が年々増えている。児童の数が足りず、小学校が廃校になるというニュースがたまにテレビに映されることもあったが、A市では今のところその気配はない。むしろ、昔よりも児童の数が増えて、一学年に編成されるクラスの数が増えている、と近所のおばさんが顔では迷惑そうにしながら嬉しそうに話しているのを耕平も聞いたことがあった。


 だから、A市には小学校がいくつかある。耕平の通う桜ヶ丘小学校もそんな市内の小学校の一つだった。


「じゃあ、一緒だねッ! アタシは桜ヶ丘の三年。キミより二つお姉さん。──それにしても、暑いね〜」


 茜は満足そうに頷いてから、パタパタとTシャツの裾を捲って風を送る。裾が揺れるのに合わせてチラチラとヘソが覗いた。

 耕平はなんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて目を逸らした。


「ドブの水もぬるいしさぁ〜。涼しかったのは、最初のうち。ほんの少しの間だけだったね」


 茜は何がおかしいのか「あはは」と笑う。

 耕平はどう反応していいか分からずに曖昧にうなずいた。

 茜がどこの学校だとか、二つ年上だとか、暑いとか、そんなことはどうでもよかった。それどころではなかった。茜に助け上げられてから、ずっと耕平の頭には一つの不安があった。


「あのさ……」


「なに? どうしたの? 怖かった?」


 耕平の様子を不審に思ったのか、茜が再び顔を覗き込んでくる。


「そうじゃなくて……。お母さんには、内緒にしてほしい……んだけど……」


「お母さんに? キミの?」


 耕平の言葉の意図が分からなかったのか、茜は首を傾げた。


「うん。その……水路に入ったこと……。お母さんにバレたら、もうお外で遊べなくなっちゃう。約束してたから。水路には近づかないって」


 口にすると自然と涙が溢れた。

 今になって考えてみると、ねこじゃらしなどどうでもよかった。どうしてあんなもののためにお母さんとの約束を破ったのだろう。お母さんとの約束の方がずっと大事だったのに。

 耕平の胸にとめどなく後悔が押し寄せる。


 突然耕平が涙声になったからか、茜は合点がいくよりも先に驚いたように目を見開いた。そのまま傾げていた首をゆっくりと戻す。


「どうして泣くの? アタシ、別に告げ口なんかしないよ? キミのうちの場所だって知らないし、キミの名前も知らないんだもん。告げ口したくたってできないでしょ? だから、泣かないで。男の子でしょ? アタシは絶対にキミのお母さんに言ったりしないから。ね?」


 茜がいくら慰めても耕平の涙は止まらなかった。茜の声にあわせて、ただただ首を横に振る。


 自分の口で『お母さんには言わないで』と言っておきながら、泣いている理由はそうではなかった。母との約束を破ってしまったこと。それ自体が重い後悔となって耕平の小さな肩にのしかかる。母を裏切ってしまった事実が、耕平にはどうしようもなく辛かった。

 だから、いくら茜が告げ口はしないと約束してくれても無駄だった。


「ねぇ、お願いだから泣かないで。アタシのこと信用できない? 大丈夫だよ。絶対に言わないんだから。言いたくたって言えないんだよ? ──もちろん、言いたいだなんて思ってないし。だから、……ね? お願いだから泣き止んで」


 いつまでも泣いている耕平を茜は懸命に慰めた。たいした反応を示さない耕平にも嫌な顔一つせず、根気よく語り掛ける。

 そんな時間がしばらく続いたあとで、ふいに茜は口を閉じた。


 慰められているときは散々無視していたくせに、いざそれが止むと耕平は無性に不安になった。茜の視線から表情を隠つもりで俯けていた顔を上げる。いつまでも泣いている自分に呆れているのだろうか。もしかしたら怒っているのかもしれない。


 けれど、上げた顔の先にあった茜の表情はそのどれでもなかった。

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