初恋のゆずシャーベット

宇目埜めう

第一章 ねこじゃらし

危険な水路(一)

 激しい日差しに照らされたアスファルトの上で、甘楽耕平かんらこうへいは幼いながらに一人、絶望していた。頭上では、ミンミン、ジージーと耕平を追い詰めるようにやかましく蝉が鳴いている。


 耕平を絶望に追い込んだ原因は、道端で見つけたねこじゃらしだった。ついさっきまで耕平の手の中にあったねこじゃらし。それが今はない。


 耕平は、一瞬で柔らかな緑色のねこじゃらしの虜になった。見つけた瞬間、プチっと容赦なく引き抜いた。一切の迷いはなかった。穂の触り感触が気持ちよかった。


 引き抜いてしばらくの間、強く握ったり緩めたりしてその感触を確かめていた。ふわふわのねこじゃらしは、けたたましく鳴く蝉の声を伴奏に、耕平の掌で踊った。耕平を翻弄するように軽やかに。


 油断するとスルスルと掌から飛び出してしまいそうなねこじゃらし。最初のうちは大切に、そして無くさないように強く握りしめていた。それなのに──。


 時間が経つにつれ、掌の大切なそれをうっすらと無意識的に忘れていった。「あっ!」と思った時にはもう遅かった。突然びゅうと吹いた生温かい風は、幼い耕平の握力をいとも簡単に無力化し、大切なねこじゃらしを攫っていった。暑さから逃れるように、あるいは、なにか別の意志によって誘われるように飛んでいく。ねっとりとした真夏の風に乗ってたどり着いた先は、黄土色で薄汚い水路だった。


 音もなく水面に触れたねこじゃらしの穂先にじんわりと黄土色の水が滲みていく。堪らなく不快な光景だった。


 ふいに『一人で水路に近づいたらダメよ』という母親の声を思い出す。小学生に上がると同時に、いくつかの約束を守ることを条件に許可された外遊び。その約束の一つが『水路には近づかないこと』だった。


「どうしよう……」


 探せば代わりのものはいくらでも見つかるはずだ。ねこじゃらしはそこらじゅうにあった。

 母親との約束だってある。

 けれど、水路に浮いた、ついさっきまで掌で踊っていたあのねこじゃらしじゃなければ嫌だった。触れていたのは短時間だったが、幼い胸にもしっかりと愛着が湧いていた。


「どうしよう……」


 もう一度同じことを呟く。

 水路の流れは思いの外速い。見つめる間にもどんどんとねこじゃらしを耕平の知らないところへと運んでいってしまう。


 不安になった。流されて行くねこじゃらしを見ていると、胸がザワザワと泡立った。慌てて水路の淵から少し離れた程度のところを走って追いかけて行く。


 黄土色の水に乗るねこじゃらしと並走する。走っているうちは、どうにかねこじゃらしを見失わずにすんだ。脚の回転速度を上げて流れの先へと走る。

 少し走ったところで振り返ると、相変わらずねこじゃらしは黄土色の水に運ばれていた。


「よしっ!」


 耕平は自分自身に活を入れると水路の淵のコンクリートに膝をついて、ちょうど土下座をするような格好で水面に顔を寄せた。

 覗き込むようにしてねこじゃらしの方を見る。左耳が水面スレスレにある。髪の先が濡れていたが、水路の水によるものなのか自分の汗によるものなのか分からない。蝉の声が大きくなったような気がした。


 ねこじゃらしを迎えようと両手をそっと晒すと、ぬるま湯のような水流が耕平の手に触れる。耕平とねこじゃらしの間に遮るものはなにもない。ねこじゃらしは耕平に向かって一直線に向かってくる。順調に思えた。


 しかし、もう少し、と思ったときねこじゃらしは耕平を嘲笑うかのように、私は自由だ、誰にも私の行手を阻むことなどできないと主張するかのように、クルリと回る。

 耕平のいるところからわずか五十センチほどの場所。そこだけどういうわけか水流が不規則になっていた。ねこじゃらしは意志を持ったように耕平から遠ざかり、流れる位置を変えた。


 だが、耕平に諦める気はさらさらない。耕平がいる方とは反対側の淵に沿って流れてくるねこじゃらしに向けて、ぐっと身を乗り出して両手を精一杯伸ばす。


 なんとか届きそうだと思ったそのとき、バランスを失った体がグラリと揺れた。重力に従って体は水面へと向かう。慌てて手をつこうにも、伸ばした先は黄土色でドブ臭い水面だった。


 ドボンッ──。


 自分の体が水路に吸い込まれる音を聞いた。それと同時に蝉の声が消える。


 一瞬でパニックに陥った。だが、どうにもならなかった。

 慌てて開けた口にドブの匂いが広がった。一瞬で黄土色の水が耕平の小さな口を満たしていく。そんなもの体内に入れたくはないのに、酸素を求める体はいうことを聞かなかった。

 臭く汚い水が容赦なく体に入る。それを耕平は重たいと思った。重たくて重たくて体が沈んでいく感覚があった。


 水は気管にも容赦なく入る。

 気管は、重たい水の侵入を激しく拒否した。たが、ガボッと一度咽せるともう止まらなかった。これではない。欲しいのはこれではない。耕平の体は新鮮な空気を求め続ける。けれど、入れ替わりに入ってくるのはやはり重たい水だった。ドブの匂いが体の内に広がって行く。


 それほど深くはないはずの水路で、耕平は上と下の感覚を失っていた。何度かは顔を水面に上げることができていたのに、気が付かなかった。

 ねこじゃらしは耕平が立てる僅かな波紋に揺られて遠く離れていった。もはや、耕平にはそれを認識することもできなかった。

 

 ふいにドボンという音が聞こえた。耕平の手足が立てる音とは違う。少し離れた場所から聞こえたのに、大きな音だった。


 その音を聞いた数秒後、耕平の体が何か意志を持った力に吸い寄せられる。両脇の辺りに棒状のなにかが差し込まれ、それに引き寄せられているようだった。

 棒状のそれがだれかの腕だと気が付いたのは、顔が完全に水面から上がり、容赦なく照り付ける日差しを遮るように覗き込んだ少女のシルエットを見止めたときだった。


 浮かび上がったのは、元々白かったのだろう肌を赤く染めた少女の姿だった。

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