夏の夜の死骸

 ある夏の日のこと、私は眠れぬ夜を過ごしていた。


 人々は皆寝静まり、虫だけが遠くで鳴いている闇の中で、私だけが惰性に横たわったままいたずらに意識を持て余している。


 そんな思いから生まれた焦燥感を向ける対象すら見えない部屋の中に、アスファルトの上を走行する車の音が入ってきた。それが家の前を猛スピードで横切る寸前に、ボンと異様な音がした。


 そして車が走り去った後には悲鳴が残った。ゲェッゲェッと蛙のような声を深夜の路面に響かせ、それを聞いた私は2階のベランダから音の正体を探した。


 おそらく野良猫やら狸やらがはねられたのだろう。しかし、月明かりすら無い曇りきった夜空の下ではそれらしいシルエットを見つけだすのは困難だった。そしてそれを探している間ずっと、私の中には様々な憶測と不安が渦巻いていた。


 悲鳴の正体は何なのか、何処にいるのか、見つけたところでどうするのか、助けるか、助けるにしても病院にはどうやって連れて行くのか、真夜中にあの騒々しい瀕死の動物を連れ帰ったとして親になんて説明すればいいのか、それで鳴いている何かが助かったとしたら誰が面倒をみるのか、いっそ下手に介入せずにいたほうがあの動物と私にとって楽ではないのか、ただ自分一人の自己満足で周りを巻き込んでいいものなのか。


 考えれば考えた分だけ新しい不安が増えていく。そんな思考の迷路を断ち切ってくれたのは、坂の上で光る二つのハイライトだった。そしてそれがこちらのほうに向かって速度を上げながら降りて来ている。


 マズイ。そう思うよりも先に肌でそう感じて私は玄関へと走った。そしてその瞬間だけは、寝ている親のことを忘れていた。だが玄関の外で私を待ち構えていたのは走り去っていく車の音だけだった。


 過去鳴いていた何かに及ばずながらも、温かみのある人感センサーのライトが玄関の庇から一人になった私を照らし、ジジジと燻るような音を立て始める。


 そこで私の中にとある一つ感情が湧いた。それは恐怖でもなく、怒りでもなく、あまつさえ不安ですらない、安心感という極めて薄情な感情だった。


 それは様々な憶測やそれに連なる不安が、一つの死によって一気に解消されたという証である。そのことに気づいた瞬間、やっと恐怖や怒りなどの感情が遅れて押し寄せ、先走った安堵感が自責の念で崩れていった。


 そして残った後悔に背中を押されたとき、私の頬を雨粒が掠めた。にわか雨、夕立ち、通り雨、いくらでもあのときの季節に当てはまる現象はあるけれど、庇から踏み出そうとした私を咎めるように突如として降った雨には畏怖の念を抱かずにはいられなかった。


 今この雨に打たれれば本当に死んでしまうのではないか、死なないにしても呪いのような何かが私の中に深く食い込むのではないかと。


 そんな恐れで震える手を庇から出しては引っ込めてとまごついているうちにも雨は止んで、私は呆然と玄関の前で立ちつくした。そこで、雨に打たれながらでも死骸を探し、見えない何かに誠意を見せるべきだったのかもしれない、と更なる後悔をしたものだ。


 そして私は雨上がりの濡れた路面と空の様子を窺ってから棒のようになった足を叩き、粟立つ腕を撫でながら死骸を探した。それもいっそ見つからないでいてほしいと願いながら。


 しかし死骸は暗い中でも遠くの街灯からのコントラストで、絶妙にそのシルエットだけが地面から盛り上がって見えるのだった。そして、やはり私は怖がった。


 今度は自分が車に轢かれるのではないか、雨の次は拳大の雹が降るのではないか、まさか死骸が生きていて噛みついてくるのではないか。そんな些細な可能性でも一度脳裏をよぎれば不安と恐怖の素となって、それが死骸に近づくたびに風船のように膨らんでいく。


 しかし、いざ死骸のもとに来てみると、なんてことのない静けさばかりが際立ち、濡れて冷たい路面には生き物の私だけが立っている。


 それでも私は死骸が生きている可能性を考慮して、それを刺激しないためにゆっくりと屈み、指を噛み千切られたりしないように握り拳を死骸に触れさせた。


 動かない。

 今度は強めに触れてみる。

 けれどもやはり動かなかったし、やはり私は安堵したのだ。


 そしてそんな薄い感情で包まれた両拳を広げて、その小さな死骸を抱き上げてみた。すると過去持った事のない不自然な骨格と、やたらガザガザした毛並みが私の両手いっぱいに広がった。


 生き物らしからぬ不安定で歪な骨格。ちょっとした手の隙間から溢れんばかりの流動をみせる。それはまるで多量の水が入ったレジ袋のようだった。


 しかし死骸の傷に関しては、精神・衛生上共に幸いとでも言うべきか、内臓が手に付くといったこともなく、尻尾の付け根あたりからポツポツと糞が垂れる程度にとどまっていた。


 そして断続的に滴る糞は、死骸を持ち上げてからもしばらく続いて死体さながらの下熱を感じさせ、その連れ立つ熱と糞便は散った生命の残滓となってことごとく手の隙間から逃げていく。この私からポツリ、またポツリと落ちていく。


 そこで鬼胎した事のすべてが、黙って漂う獣臭さと雨の匂いによって、ひどく白々しくつまらない贋作的なものに思えた。


 居たたまれなくなった私はせめてこれ以上車に轢かれることのないようにと、手にした死骸を柔らかそうな路肩の草の上に置いて家へと戻り、玄関の庇から光を受けた。


 そこで露わになったのは、死骸の糞にまみれた自身の手元と、まさしくあの日の尊厳だった。

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