ふくみ1

 区役所内は、薄暗い。

 殆どの電気が消されていた。警察に対する牽制だろうか。だが逆に、茅島ふくみにとってこれほど都合の良い状況もなかった。彼女の異常なまでの聴覚は、先の見えない闇の中での円滑な移動を可能にしていた。

 静かだった。

 外から、かすかに喧騒が聞こえる。まだ職員が、何人か残っていることも確かだった。

 けれど息を殺したように、何も聞こえない。

 廊下を突き進んでいると、唐突に銃声が聞こえる。

 こっちに向かって放たれていた。けれど、向こうも素人。ましてやこの闇。ふくみは身体を動かしもしなかった。

 弾は、見当外れの方向に当たる。

 狙う技量も、方法も犯人にはない。だけど、こちらの存在には気づいているようだった。

「彩佳! 彩佳さん! 助けて……!」

 セナの声が聞こえる。しきりに、彩佳の名前を呼んで。

 気の毒だけれど、彩佳は置いてきた。なのに罪悪感ばかりで、肝心の身軽さをちっとも感じなかった。

 彼女の顔が思い出された。

 彼女との思い出が浮かんだ。

 彼女を……突っぱねた時の後悔が、口の中に広がった。

 首を振って、廊下の奥へ向かって言う。

「あなた、中央コンピューターを探してるんでしょ」

 返事はない。

「普通の職員じゃ、誰も知らないらしいわね。人質を脅して吐かせようとはした?」

「黙れ」聞こえた。矢畑の声。

「助けて! 茅島さん!」セナは泣いている。

 こちらに武器はなにもない。無謀かもしれないが、もとより相手は機械化能力者。それも両腕。真正面から銃弾が通用するような相手でもない。精密女が使う機械化能力者制圧用の弾丸以外に、銃撃が有効なパターンは少ない。流石に真後ろから撃てば、犯人も反応は出来ないだろうが、人質がいる以上、背後への警戒を解くとは思えない。

 物陰に隠れて様子を見た。

 犯人の呼吸。エレベーターに向かっている。焦っているような、その息遣いが聞こえた。

 まだ、中央コンピューターへの目星もついていないことはわかる。

 どうやって彼を止めるのか、それが問題だった。戦闘や武力交渉という分野に於いて、茅島ふくみはただ他人を蹴ることが出来るという度胸があるだけの、単なる一般人に過ぎない。街の不良との喧嘩だって、彼女に対抗する術はない。

 中央コンピューターに近づけないようにして、時間を稼ごう。それしか方法はない。いずれ、外でやっている騒ぎが収まる。突入隊がフリーになれば、武器を持って区役所内に押し入ってくるだろう。機械化能力者に対して圧倒的に不利に出ている警察といえども、機械化能力者に対する武器を、全く持たないわけではなかった。

 犯人を制圧してセナを救出できるのは、警察を於いて他にいない。

 ふくみに出来るのは時間稼ぎ、追い詰め、耳での情報収集。それだけ。

 何か、会話をして繋ごう。

 そう思って話しかけるが、返事がなかった。

 騒がしい。さっきまでは聞こえなかった雑音が、耳に入ってくる。

 何処へ行った。見失うなんて、失態だ。この街へ来てから、失敗ばかりだ。

 突き進んで、廊下の脇にある部屋を覗く。

 事務室のような一室。

 窓が開いていた。天井から床まで、一枚のガラスで繋がっているような、巨大なスライド式の窓だった。網戸が露出していた。

 ここは、五階だ。外から、まだ争いの怒号や物音が聞こえた。

 耳が良いと言えども、これだけの雑音で誤魔化されると、さすがに聞き取るのには邪魔だった。

 奴は、ふくみの耳の機能を知っている。だからこそ、こんな対抗策を敷いてきた。

 冷たい。高さのせいか、バカみたいに冷たい空気が部屋を冷やしていった。

 気が散る。

 何処だ。

 犯人は、どこへ消えた。

 落ち着け。雑音があったとして、聞き取れないというわけではない。ただ脳内で選り分けるのに、やや苦労するというだけの話だ。

 深呼吸をして、姿勢を低くする。

 物音を立てないように、猫みたいな慎重さで、部屋に踏み入れる。

 聞こえるのは、

 セナの声。

 言葉にはなっていない。なにかで、口を塞がれているようだった。時々聞こえる、粘着質な音。テープか? さっきまで、自由に喋らせていたというのに、どうしたんだ。騒ぐから、鬱陶しくなったのだろうか。

 動く気配。

 手頃なものを、離れた場所に投げて、物音を立てた。

 犯人の足音。移動する。

「……来るなと言っただろう」

 注意深く、ふくみの位置を確かめるようにして。

 セナのおかげで、場所はわかる。

 回り込もう。

 回り込んで、確かめる。

 セナの音源は動いていない。つまり、何処かに寝かされている。

 セナさえ救出すれば、あとはなんてことはない。

 覗き込め。

 セナと犯人が、離れているのか。

 セナを助け出せるのか、

 犯人の背中ががら空きなら、蹴り倒してしまうのか。

 それを判断するために、ふくみは机の影から、セナの声がする方向に近づく。

 首。

 のばす。

 そこには――

 セナ。

 寝かされていた。

 首を振っていた。

 その意味。

『だめ』

 後ろ。

 銃口、引き金を絞る音。

 身体を捻って、ふくみは転がる。

 銃声は、自分とは違う方向に向かった。

 避けた。

 避けたのに、転がった身体を見逃す犯人でもない。

 腹を蹴られた。

 吐きそうになる。

 身体を起こそうとする。

 顔。そこに足が飛んでくる。

 右。肩にあたった。

 後ろに飛ぶ。

 そこには、開かれた窓。

 網戸に派手にぶつかって、ふくみは体勢を崩した。

 あ、

 やばい。

 落ちる――

 身体は、空中にあった。

 とっさに腕を伸ばして、何かに捕まった。

 感触。窓の縁だった。

 ふわりと、腹回りから、冷たい風に煽れて、吹き飛んでしまいそうな感触になる。

 夜空とネオンに照らされた街が見える。

 無駄に長い髪の毛が、大きく海藻みたいに揺れている。

 上がらないと。

 そう思って力を入れたが、犯人はふくみの顔に、拳銃を向けた。

 見上げる。

 犯人。

 笑うな。

 見るな。

 逃げ出そうとしたが、こんな状況では、どうしようもない。

 いくら発射タイミングを聞き分けられると言っても、避ける方法がなければ意味はなかった。

 終わるの?

 こんなところで?

 彩佳の望みを叶えたかった。だから、先に死ぬつもりなんてなかった。

 ただそれだけだったのに。

 あなたと、また楽しく笑えるようになる前に、撃ち殺されるの?

 手はないか。

 下を見る。下の階。窓の出っ張り。

 手を離し、あそこに掴まるか? それほどの握力が自分に有るのか。

 覚悟を決めようとしたその時。

 銃声。

 けれど、さっき聞いたものではない。

 この音は、

 精密女のスナイパーライフル。

 それが、部屋の中から聞こえた。

 どうして?

 その答えは、考えるまでもなかった。

 精密女の持っていた、大げさな長い鞄を、受け取った人物が一人。

「誰だ」と言って、犯人は振り返った。

「茅島さんは……」

 ああ、

 彩佳。

「私と一緒に死ぬんだよ」

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