彩佳5 15日 8時

「彩佳さん、帰っちゃうんですか?」

 リビングに降りて行くと、既にそこにいたセナに声をかけられた。耳が早い。さっき美雪がトイレに降りた時に、話しかけられたのだろうか。

 別に、はっきりともう帰ろうと決めたわけではなかったが、美雪はそう受け取っていたらしい。

「わかんないけど……」私は答える。「でも私はバイトに過ぎないから……。美雪が危険だって言うし」

 セナは、私の前に立って、真っ直ぐに私を見つめる。

 その場に縛り付けられたみたいに、動けなくなった。

「彩佳さんは、どう思ってるんですか?」

「私……?」

「彩佳さんは、どうしたいんですか」

 わからない。

 悔しい、留まりたい。

 でも留まることで得られるメリットがない。

「それで、彩佳さんは……それで良いんですか?」

「それは……よくないと思うけど」

「もう、セナちゃん」

 後ろから、美雪が現れた。聞いていたらしい。

「彩佳にも都合があるんだよ。わがまま言わない」

「美雪さん……」セナは不機嫌な顔を見せた。「でも彩佳さん……まだ友達と仲直りしてないじゃないですか。この街に来てるって言いましたよね。先に帰ったら、仲直りなんて出来ませんよ」

 胃が痛くなる。

「彩佳さん、それで良いんですか!?」

「セナちゃん」

 美雪が止めたが、私はむしろ美雪に向き直った。セナを直視できなかった。

「ごめん美雪。茅島さんに会ったら、ごめんって言っておいて」

「……うん、わかった」

 そう告げてしまうと、始めから帰ることを望んでいたかの様に、身体が馴染んでいった。

 茅島さんから逃げて、それで良いんだ。私には、一番それが良いんだ。

「…………待って下さい」

 セナ。

「暗号を……おじいちゃんからの依頼を完遂してくださいよ」

「それは、美雪がやるよ」

「彩佳さん、約束してくれたじゃないですか」セナが、じっと私を見上げる。「大変なのはわかりますけど、危険なのも、わかりますけど……暗号を解いてくれないと、おじいちゃんが、無駄死にだったんじゃないかって」

「……無駄死になんかないよ」私は彼女を向いた。「……ごめん。悪かったって」

「…………」

「……わかったよ。最後に、もう一度、暗号について考えてみるよ」

 セナの顔を見ているうちに、私は折れていた。

「セナちゃんも協力してよ。これで最後。なにもわからなかったら、私はこれ以上危険にならない内に帰る。解けたら、茅島さんに直接報告でも何でもするよ」

「彩佳さん」セナが、笑った。「わかりました、私、なんでもやります」

 ああ、そんな大きな口を叩いて、

 私は茅島さんと直接話す勇気なんて、まだ持ち合わせていないのに。

 セナの純真を、棒で殴るみたいに粉々にしてしまうのが、それと同じくらいに恐ろしかった。

 三人でソファに腰掛けて、美雪はコンピューター、セナは自分の端末を用意した。私は、なにもしなかった。

 解けるはずだ。普通に考えれば。

 前の区長と言ったって、暗号のプロというわけでもない。情報も揃っていると思う。下層の暗号もある。なぜわからない。解読表がわからないから、という根本的な問題に、いつもぶつかって終わる。

 逆に言えば、それさえ見つかれば大した問題ではないはずなんだ。

 美雪は暗号を並べて表示させた。

 上層 Suituranomitoka.

 下層 Ninararaniti.

 腹が立ってくるくらいに、眺め回したその文字列。

 セナに、前区長の自宅の様子を伝える。彼女はそれを聞いて、見取り図を作成する。とくに、何者かに襲われた彼の自室は、詳しく書き込んでもらった。見取り図を見返すと、あの時の美雪の悲鳴を、鮮明に思い出せるくらいだった。

「あとは……」セナは呟く。「暗号表があればたちどころに、って感じですか?」

「そうなんだけど」美雪が答えた。「何処にもないんだよね。前の区長のコンピューターまで覗いたんだけど、なんにも見つからなかった。インターネットにも、それらしいよく使われるような解読表と照らし合わせてみたりもしたけど、違うみたいだった」

「うーん」セナは顎に手を当てて唸った。「じゃあ……もっと内輪で使われるような……なんていうか、コンピューターに保存する必要すらないもの、とか?」

「内輪かあ……」美雪が思い出す。「仕事場だった部屋にも立ち入ったけど、何にもなかったんだよねえ。内輪ってのは、多分そうだろうけど……もっと身近なものってことか」

 身近なもの。

 例えば、ゴミの日が書かれた表。

 レシピ。

 カレンダー。

 日用品の中にあるもの。

 内輪で通じるということは、そのコミュニティ内の全員が所持しているもの。もちろん、それ用に作った表ではない。だとするなら、コンピューター内にデータが残っているはずだからだった。

 あの部屋の様子。思い出す。ベッド、押し入れ、小物、コンピューター。窓、衣類。この中だ、この中にある。どれだ。

 そうして、

 私は息を吸って、吐いた。

「キーボードだ」

 私は美雪の手からコンピューターを引っ張って、キーボードを眺める。

 その一般的なキー配置。

 二人は、私を見ていた。

「キーボード?」美雪が首を傾げた。「それが……?」

「JISキーボードなんて、それこそ大昔から何処の家庭にもあるから、これなんじゃないかな」私はセナに頼む。「セナちゃん、暗号を読み上げてくれないかな。ローマ字読みで」

「あ、はい」

 セナは声に出して、私の言うとおりにする。

 上層

  す い つ ら の み と か

 下層

  に な ら ら に

 なんの意味があるのかはわからないが、キーには基本的にふたつ文字が描かれている。

 そして、これはキーボード上の日本語を示している。

 示された日本語が有るキー、そこに同時に記載されているアルファベットを拾う。

「美雪、メモして」

「うん……」

 私は探して、読み上げる。

 上層 R E Z O K N S T

 下層 I U O O I A

 なんだ、

 なんだこれは。

 よく理解できなかった。

 まて、落ち着け。

「これ……」釈然とした顔をしなかった美雪が言う。「上層と下層をくっつけるのかな」

「じゃあ……」セナが身を乗り出す。「上層と下層を交互に読んで……いや、これじゃあ違うかな……。えっと、じゃあ、上層には子音しか無い部分があって、下層が全部母音しかありませんから……」

「……文字数の関係で、上層の最初だけ母音が混ざってるだけ?」私は言う。「REは『れ』でZOは『ぞ』。ほかは交互に読んでいくと……」

 そこには、

 意味のある文章が現れた。

『れいぞうこのした』

「冷蔵庫の、下……?」

 読み上げて、私は呆気なさと、結局解けたところで何を指し示すのか意味がわからないという徒労感を、同時に抱える。

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