ふくみ3

 スラム街という名前を聞いた時には、もっと薄汚くて、住むのも躊躇われるような場所だと思っていたのだけれど、いざ足を踏み入れてみると、案外下層の、一般的な街並みとそこまでの違いは無い様に見えた。ゴミは散らかっているし、廃墟ばかりが立ち並んでいるが、全体的な印象は同じだった。それは、下層自体がこんなものだという証拠でもあったが、口に出すのは憚られた。

「向こうに逃げたんですよ」建物の壁にもたれかかって待っていた精密女が、指を差して言った。「あなたの耳なら、何処にいるかわかるんじゃ無いですか?」

「拳銃の金属音を探せば良いのね」

 彼女たちは足を踏み入れる。

 窓が割れている建物。そのあたりで何故か燃え盛っているドラム缶。路上で談笑する人々。

 こうしていざ、スラム街を内側から眺めてみると、その雰囲気は違って見えた。下層の街と同じ様だと思った自分の考えを、すぐに捨てたくなった。

 その異なった雰囲気の正体は、その辺りにいて、ふくみたちを眺めている住民の視線だった。

 音を聞くだけでもわかる。歓迎されていない。ともすれば、攻撃する機会すら、伺っているようにも思えた。呼吸の音。明らかに、自らの存在を、隠し通そうとしている人間の、生きの吐き方だった。

「ふくみさん」精密女が歩きながら、口を開く。「こんなところで厄介な喧嘩を買っても良いことありませんよ。特にあなたは弱いんですから」

「あんたじゃあるまいし、喧嘩なんか買わないわよ」

「絡まれたら、私が守ってあげますよ」彼女は機械の腕の指先を開いたり閉じたりした。

 潜んでいる住人たちの立てる音の中に、拳銃乏しきものは無かった。スラムだろうが、拳銃なんか入手するのは難しいのだろう。助かった、とふくみは思った。

 何処から銃撃されるかわからないから、精密女を前にして廃墟の軒下を歩いた。こんなところでも店がやっていたり、住人が出入りしていたりしたが、精密女のおかげか、因縁をつけられるようなこともなかった。

 次第に、マンションが見えてくると同時に、ふくみの耳に届く、例の金属音。

「……いるわ」ふくみは足を止める。「狙われてるんじゃないかしら」

「じゃあ発砲直前に教えて下さいね」

「ええ……」

 近づく。きっと、マンションの何処かに、犯人は隠れているに違いない。生活音にまぎれて、不自然な音が紛れているのは、隠し通せるものでもない。

 高さにすれば五階建て程度のマンションだったが、途中で他の建物と連結されているのか、その規模は実際の高さ広さよりも大きい。正面には、目立つ看板が掲げられており、『居住歓迎』と明朝体で書かれていた。

 エントランスに着く。ロックだけはしっかり掛かっていた。

「こじ開けますか?」

 腕を振り回しながら精密女が尋ねたが、ふくみは首を振る。

「いいえ、耳で聞いてみる」

 このマンションに居る人間くらい、耳で聞いて判別してみせる。ふくみはそう決意して、耳を研ぎ澄ませた。

 聞こえる。

 例の金属音。犯人としては、目立たないように行動しているつもりだろうが、それが却って逆効果だった。銃をホルダーにでもしまっているのか、その揺れる音が聞こえる。

 犯人は、マンションを登っていっているようだった。屋上にでも出るつもりだろうか。そこに何が有るのかはわからない。そこから隣のマンションにでも繋がっていると考えるのが妥当だった。

 逃げられたら面倒だな、とふくみは舌打ちをする。耳を使って探すのは容易かもしれないが、仲間がいるとすると、もはや精密女の腕力だけで対処できる問題ではない。

「精密、やって」

「はい」

 単純なロックの掛かった自動ドアに過ぎない。鉄が曲がるような腕力を加えれば、おかしくなってしまうのは当然だった。

 精密女は、まるで自分の家であるかのように扉に手をかけて、力を込め始める。

 すると、

 そこに背後から声がかかった。

「おい、何をしている」

 ふくみは振り返ったが、精密女は無視をしていた。

 スラム街の住人が、そこに数人立っていた。いずれも、古臭い上着を着た男性高齢者だった。ふくみたちを、まるで頭のおかしい人間でも見るみたいに睨みつけていた。

 その気持ちはわからないでもないが、ため息を吐きながらふくみが応対する。

「すみません。銃を持った人間が、ここへ逃げ込んだんですよ」

「知るか」男の一人が対応する。「お前たち、あんまりここで変なことをするな。放って置いてくれ。今すぐ、スラムから出ていってくれ。気味が悪い。従わないなら、こちらも、あまり暴力ってのは好きじゃないんだが」

 男は右手を掲げた。なんの意味があるのかと思って眺めていると、男は説明する。

「俺たちは、機械化能力者だ。スラムには、そういうやつが多いんだ。機械化能力者の信じられないくらいの悪名は聞いているだろう? 言うことを聞かないなら、機能を行使させてもらうよ。もしかすれば、お前たちの身体はぐちゃぐちゃになるかもな」

「そうですか」ふくみは面倒に思いながら言う。こんなことをしている暇はないというのに。「でも、こっちも仕事なんです。銃を持った人間を、放置するのは危険では」

「知ったことか。いますぐ出ていけ。機能を使うぞ」

「あら?」

 精密女が急に扉から手を離して、老人たちの前に立った。

 その両腕をわざとらしく広げながら。

「機械化能力者なんですか? 奇遇ですね、私もです。見ればわかりますか」ははは、と精密女が笑う。「私もね、武力行使が得意なんですよ。専門なんです。文句があるなら私と戦いましょう。プロレスなんてどうですか? プロレス。文句ありませんね」

「あんた……その腕……」老人は、畏怖する。「どうして隠さないんだ」

「あなたみたいなのが、勝手に恐れるからですよ」

 そうしているうちにも、犯人はマンションを上がって行く。ふくみは焦り始める。あまり離れられると、耳でも探せない。

 そのまま、睨み合ったまま、しばらくの時間が流れた。

 我慢がならないとふくみは動き出そうとしたときに、通りの奥の方から、拡声器を使った声が聞こえた。

『お前たち、何をやっている』

 見るまでもなく、それが警察であることがわかった。

 スラムの住民たちはあわてて散り、ふくみと精密女はそのまま犯人の追跡に戻ろうと思ったが、警察に止められた。

 警察の集まりは数人程度だったが、しっかりとした武装をぶら下げていた。その中には、館に聞き込みに来ていた徳富刑事もいた。彼は現場では上の立場なのか、後ろの方で部課の指揮をしている様に見えた。

「お前たちか……」徳富は、呆れ返ったように言う。「銃撃事件があったのは聞いている。馬郡の息子が襲撃されたときから不安だったが、お前たちが追いかけていたのか。なぜじっとしていない」

 精密女は言い返した。

「施設から話は通っていませんか? 私達は機械化能力者犯罪を調査する専門家です」

「銃撃犯が機械化能力者である証拠なんかないだろう。民間人が手を出すんじゃない」

「民間人じゃありませんよ、一応」

「屁理屈はやめろ。民間人が死ぬと、処理が面倒になる」

 その後も、徳富の説教が続いた。まあ確かに、普通であれば銃撃犯を追いかける道理なんて無かったのかもしれないが、この精密女に限れば、警察の武装よりも犯人に対して強く出られる場面のほうが多い。それなら、犯人を追いかけてその正体をはっきりさせることの利の方が大きいのではないかという考えを、どうも否定できなかった。

 気がつくと、ふくみは犯人の気配が完全に察知できなくなっていた。

 何処か、遠くに行ってしまった。



 徳富刑事から開放されたふくみたちは、さっき孟徳のバンドメンバーから聞いた、昔住んでいたというマンションを探して、訪れた。

 さっきの場所からは、少し離れたところにあった。薄暗い路地裏を抜けた先に、そのマンションは存在した。規模は、先程よりもさらに小さい。三階建ての、火をつければ全部燃えてしまいそうな、か細い印象があった。

 階段を登って、部屋の番号と名前を確かめて、インターフォンを押して呼び出した。エントランスなんてものは存在しなかった。

 老人は、川松と名乗った。一人暮らしらしく、家には誰もいなかったが、問題なさそうなほど健康そうな肉体をしていた。もしかすれば、機械化能力者なのかもしれない。スラムと言う割には、裕福そうな暮らしもしているように見える。

 彼が、孟徳のメンバーの言っていた、スラムに詳しい老人だった。

 白髪を整えた、世間のことに興味がなさそうな、偏屈そうな男だ。ふくみたちのような若い女が訪れて、さぞ不審に思っただろうが、孟徳のバンドメンバーの名前を出すと、彼は少しだけだけれど、気を許したように見えた。

 居間に通されて、適当な椅子に座るように命じられた。

 話を聞いていると、本当にスラムには詳しいのか、どうでも良いスラムの人間の、くだらない失敗談や笑える話を彼は口にした。そうやってあざ笑うことで、彼は自分が周囲のスラムの人間よりも、自分はまともなのだと確認しているようだった。ちなみに、彼によると、さっきマンションでふくみたちに絡んできた老人は、彼のかつての友人だという。宇根山という名で、酒を飲むたびに毎回飲んだだけ吐く。そのせいか、前歯が人工のものに置き換わっているという。クソみたいにどうでもいい話だった。

「前の区長とも知り合いだったよ。舘田だったかな」

 急に、自分の知りたい情報に、近い所に話が飛んでいき、眠ってしまいそうだったふくみは、急激に目が覚めていくのを実感する。

「惜しいよな、悪いやつじゃなかったんだが……殺されたよ」

「待って下さい」精密女が止めた。「事故じゃないんですか?」

「世間的にはそう処理されているが、実際は違うようだ」川松老人は、煮え切らない表情をする。「あれは事故じゃない。スラムの過激な連中が……自分たちがやったと公言していた」

「……本当ですか?」息を呑んで、ふくみが言う。

「確かにな。だが、そんな証拠もないのも本当だ。奴らのことだ、うまく隠したんだろう。それに、スラムの人間の言うことなんて、街の人間はろくに信用しないさ。街の人間は、スラムのことが嫌いさ。美楽華区更新計画なんて話も立ち上がったが……あいつらが考えているのは、上層と下層のどちらを残すか、という上層が残るに決まっている形式的な議論だけで、スラムのことはなにも聞いてはいない。そりゃ、恨まれるもんさ」

「その、更新計画っていうのは?」

 老人は、概要を説明した。前の区長が立ち上げた、街を統一しよう、綺麗にしよう、そんな理念をもとにした都市発展計画の一種だという。問題も有る計画で、反発も大きかった。前の区長が死んだ現在は凍結されているらしい。

「奴らは……俺たちを消す気だった」老人はつぶやく。「別に、俺はスラムに愛着はない。家賃が安いから住んでいるに過ぎない。だが、ここを離れたらもう死んでしまうような連中がたくさんいる。舘田は、一体何を考えていたのか……そこだけはわからん。死んで当然だとも、思わないでもない」

「……馬郡と」精密女が話題を変えた。「槇石の当主が殺された話はご存知ですか?」

「ああ、ニュースで見た。ひどい状況だったらしいが、箝口令が有るのか、どう酷いのかは知ったことじゃない」

「液体を吸い上げる事のできる機械化能力者をご存知ですか?」

「……わからんな」突拍子もない質問だっただろうが、老人は事件に関係があると察して、首を振る。「俺も、スラムの全員を把握しているわけではない。元々は、ここの人間でもないからな。だがここには、そういった特殊な機能を持った連中が、集まることも有る。そういうのも、いただろうな……」

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