彩佳2 13日 23時
区役所で、その成果と無意味さを両手で確かめながら、その日は上層をぶらぶらして、館に戻った。
サボタージュという意味もあった。何も進んでいないと上司が知れば、追加の人員だって送ってくれるんじゃないかって私は思った。まあ、結局、美雪の様子を見るにそんなことはなさそうなのだけれど。
館に戻って、岡芹の作る夕食を食べ、客室に戻った。日課みたいになっていた暗号について考える時間は、この日は消え失せていた。
ぐっすりと眠ろう。下層の暗号のことは、明日考えよう。下層にでも行けば見つかるのか? 馬郡家にコンタクトを取るというのが一番なのか。馬郡が暗号を所有している保証はなかったが、何か知っているとするなら、馬郡を置いて他にはいない。
入浴を済ませて、布団に入ろうとした矢先だった。
隣で着替えていた美雪の端末が鳴った。
「あ、精密女だ……」美雪は画面を開いて、そう呟いた。
途端に、あの女の顔を思い出す。そして、その隣にいるであろう茅島さんのことも。つまらない業務連絡だろう。私はそう勘ぐっていたが、見ると美雪の様子が少し変だった。
彼女は、私を呼び止めた。
「彩佳……これ、見てよ。精密女が送ってきたんだけど……」
私は不思議に思いながら、美雪に近づいた。
彼女の端末の画面を覗き込んで、同時に、そこに表示された見慣れた文字列に、頭を殴られるようだった。
暗号だ。
下層の、暗号。
『下層 Ninararaniti』
「彩佳」美雪が、喜んだような声を上げた。「これがあれば、解けるんじゃないの?」
「上層だけよりは、まあ、可能性としては……」私は、そんな事を言いながら、それでも頷いていた。
下層に暗号は、本当にあったのか。それもこのタイミングで精密女からもたらされるなんて、現実に起こったのに信じられなかった。もしかすれば、茅島さんが見つけたのかも知れない。つくづく、私は彼女がいなければ何も出来ないんだなって、勝手に実感した。
けれど、下層と上層、そのふたつの暗号を並べたところで、さっぱり意味がわからなかった。
「よくわからないなあ」美雪が呟いた。今はふたりして、椅子に腰掛けていた。「結局、どっかに解読表かなにかがあるんだと思うけど」
「前の区長の家にでも行ってみる?」私は言う。「どうせ行くつもりだったんだし。久瀬川区長からの連絡もないし」
「そうだね。暗号自体は、それほど難しいと思えないんだよね。前区長と言っても、別にスパイだとか、常識を越えた人間じゃないんだから、きっと誰にでも思いつく範囲の、簡単な変換だと思う」
「そうだと良いけど……」
美雪は、区長に連絡を入れた。前の区長の自宅を調べさせて欲しいというアポイントだった。区長の返事は、暇らしくすぐに届いた。
明日、十時に区役所へ来てくれ、と彼女の返事には書いてあった。明日はそのくらいの時間しか暇がないのだという。
確認した美雪は、部屋を出て岡芹にそのことを伝えると、車で送ってくれると彼は当たり前のように答えた。
これは、なにか成果を上げないといけないな。やる気ではなく、申し訳無さが、私にそう思わせた。
翌日。日付が変わって、その日の十時ちょうどだった。岡芹の車で区役所へ、そこで待っていた区長に連れられて、前の区長の家に向かった。移動手段は、区長の秘書が運転する車だった。秘書は老人の男性で、きっちりと決めた黒いスーツが鼻についた。けれど、秘書という割に妙に荒々しい運転だったので、私はここで死んでしまうような予兆すら感じてしまい、車に乗っている間、私は両手を合わせて時間が過ぎるのを待っていた。オートドライブもあるというのに、なぜこんなことになるのか、私にはわからなかった。
前の区長の家は、区役所から十五分ほど経過した頃に到着した。
三階建てのビルディング。それら全てが自宅だという。言葉だけ聞くと途轍もない豪邸のように聞こえるが、周辺の建物に比べて細く、小さく、見た印象は大したものでもなかった。これなら、高級マンションの一室に住んでいたほうが良い暮らしだろう。セキュリティもまともなようには見えなかった。
個人が住むには確かに大きいけれど、灰色で、古臭くて、率直に言ってみすぼらしい。区長なんて務めても、この程度の暮らししかさせてもらえないなら、なんで区長なんかやってるんだろう。これなら久瀬川の自宅だって、そう大したものでもないに決まっている。私は隣にいる久瀬川を横目で見て、勝手に同情心を抱いた。
入り口には表札すら掛かっていない。区長ともなれば、掛けないほうが安全なのだろう。
久瀬川が、電子ロックに暗証番号を、端末に記録したメモを見ながら打ち込んだ。しばらく待っていると、扉が開いた。
秘書は護衛のためか、入り口で見張っていると言った。現役区長がこの程度の警護しか受けられないのかと思うと悲しくなった。
中へ入る。
外から見た印象とは違って、内装は案外普通の住宅だった。階段が無骨なコンクリートであることが、気になる程度だった。居間や書斎や、個人的な部屋、娯楽が押し込められたコレクション部屋まであるみたいだった。当然、風呂やトイレも有る。水道が、現在も使えるのかどうかは知らないけれど、電気は通っているみたいだった。久瀬川が電気のスイッチを探して明かりを灯した。
材質のせいなのと、暖房が動いていないせいで、なんだか寒い。
「へえ」美雪が息を漏らした。「私、こんな家に憧れるよ」
「そうなんだ」全く理解できないまま、私は頷いた。「変な家だね」
「なんて言うかな、機能的でわくわくするじゃん」
「なにかあるとすれば……」久瀬川が、端末のメモを見ながら階段を登っていくので、私達はそれに追従した。「彼の個人的な部屋かな。二階にあるみたい。他の部屋は……まあ後でも良いか」
二階へ上がる。久瀬川の説明によると、トイレや倉庫のような部屋があるらしい。鍵は掛かっていないのか、久瀬川はノブを躊躇なく捻って目的の部屋を開ける。
「この家は、前の区長が死んだ時からそのままなの」久瀬川は、部屋をぐるりと見回してから言った。「彼、家族もいなかったから、引き取り手も居なくて、でも支持もあった区長だし、取り壊すにしても税金を使ったら反対派もうるさくてさ……結局、消えたパーツのこともあるし、警察も調べたいことがあるって言うんで、そのままにしてるの。水道は止まってて、今は電気しか通ってないわ」
館田前区長の自室。
「そう、なんですか」美雪が相槌を打つ。
「うん。だから、事故があった日から、そのまま」
なんの趣味を持っていたのかもわからないような、いやともすれば、そんなものすらなかったのかも知れないほど、簡単な部屋だった。彼の汚い仕事場と、そこまでの違いはなかった。
部屋の中央に机、隅にベッド。奥には窓があった。窓のある住宅なんて、こうして見ると久しぶりに訪れたようだった。
机には、デスクトップコンピューター。ベッドの反対側には押し入れ。衣類でも押し込められているのだろうか。所々、脱ぎ散らかした衣類が見受けられた。
ビル一つが自宅なら、自室とは別に、衣装部屋や寝室ぐらい用意したいと私は思うのだけれど、そうしていないのは、館田の性格なのだろうか。結局人間は、どれだけ家が広くても、起きていれば椅子一つあれば良いし、寝るときはベッドが一つあれば良いし、生活するのにそれほど大それた空間は必要ないということだろう。
解読表があるとすれば、きっとこの部屋にある見込みが高い。なければ、他の部屋を探ろう。それでもなければ、もう暗号解読自体を、諦めてしまおう。
私達は三人でこの部屋をひっくり返す勢いで調べた。私の担当は押し入れだった。衣類は邪魔だったので、布の表面に何も重要なことが書かれていないことを確認すると、部屋の隅に投げ込んだ。美雪はコンピューターに(不正に)アクセスし、久瀬川区長もベッドの下などを調べた。現職の区長に、こんなことをさせるのは申し訳なかったけれど、彼女がやりたいと言い出したので、止めるわけにもいかなかった。
美雪がキーボードを打ち込んでいる。カタカタと、なんだか奥歯が痒くなるような持続的な音が響いていた。
「まあ大抵、こういう場合はパソコンに入ってるんだよ」美雪がそのままの姿勢で言う。「パソコンには、その人の大事なものが含まれているのが常なんだよ」
「警察は、探ってないんですか?」
私は気になったことを、区長に尋ねた。彼女は少し考えた後に、覗き込んでいたベッドの下から視線を上げて、私の方を向いて答えた。
「当時は、ある程度は探したんじゃないかな。でも、暗号が見つかったのがその後だったし……。警察も、遺言とか引き継ぎとか、そんなことしか調べてないと思うわ」
パーツが無くても成り立っている現状を鑑みるに、警察もパーツの行方などにはさして興味も義務もないのだろう。槇石と馬郡が欲しがっているとしても、警察が表立って私人の我が儘に付き合うわけにもいかない。
しばらく、各々の作業を続けた。
美雪はコンピューター内に、暗号の原本となったテキストデータすら残されていないことを確認して、席を立った。諦めたような彼女の表情が、虚しいという感情を私に植え付けた。
久瀬川は何も見つけられなかった様子だった。もともと、少し手伝ってもらっているという立ち位置に過ぎないということは、私も理解していた。だからこれも想定の範囲内だった。
意外にも、なにかがあったのは、私の調べていた押し入れだった。
なにかと思った、紙の束。衣類を入れている引き出しの、間に突っ込んであった。見たくもない自作のポエムにも似たその扱いの悪さが、逆に私の気を引いた。
私はそれらを掴んで、内容を確かめた。
ああ、これは。読んだことがある。
「美楽華区更新計画……」
そう口に出して読んだのは、区長に確かめるためだった。美雪と私は、褒められた方法はないが、既にその計画のことを知っている。
紙面は、更新計画だけではなかった。様々な、この区に関する改造とも言える手入れに関するものばかりだが、その全てが凍結されていた。
区長は私の声を聞いて、変な声を漏らして、私の持っている紙を覗き込んだ。
「こんなところにもあったのね……」久瀬川が憎らしくそう言う。「更新計画と、それに付随する、上層に有利な一方的な法案よ。更新計画ってのは……下層を潰そうっていう計画よ。現在は止まってるわ」
「……怖い計画なんですか?」私は区長の顔色をうかがいながら、尋ねた。
「ええ……それで、下層の過激派が動き出すくらいにはね。だから、凍結して正解」久瀬川は頭をかく。「でも……区長のパーツがあれば、計画は再開できるのよね。こんなことだから、今のほうが実際の治安は良いんだって言われるのよ」
息を呑む。そのパーツのはっきりとした用途のひとつを、投げるように目の前に提示されて。
この計画を進めたい人間なら、パーツを欲しがるのかもしれない。
美雪は私の持っている紙面を、端末でスキャンして保存した。これでいつでも確認できるが、そう何度も見たいものでもなかった。
「ふう」美雪はため息を吐いた。「この部屋には、もう手掛かりはないのかな。結局、解読表もなさそうだし」
「うん……」頷く。「区長、他の部屋も探してみていいですか?」
「ええ、構わな――」
突然だった。
音。
一瞬で、その音がなんなのか、普通に生きているだけでは、瞬時に判断なんて出来るはずがなかった。
破裂音、
いや違う。
――銃声?
悲鳴。
「きゃあ!」
美雪のものだった。彼女は、姿勢を下げていた。
私は、どうすれば。
わけも分からず立っていると、久瀬川に手を引っ張られて、机の下に連れ込まれた。
この女、慣れているのか。
何が起きた。わからない。
ただ狭くて、机という遮蔽物を背にして、私は区長と身を潜めている。
ただそれだけの状況にしか思えなかった。銃声なんて、幻で、日常から地続きで、
「私を……」久瀬川が、声を殺しながら、そして震えながら言った。「私を狙ってるんだわ…………こんなところまで追いかけてきて……秘書の野郎、なにやってる……!」
「犯人は下層の人、ですか?」
「わからないわ……でも下層の過激派しか、こんなことやらないわよ……!」
そうやって焦る区長を尻目に、私は異常に冷静だった。
以前の私であれば、きっと取り乱して、すでに撃ち殺されている。
何が私をそうさせているのか。
ああ、そうか。
右手を見つめた。巻かれた包帯は変わっていない。
今は、別に生きる理由なんてないからか。
次の銃声。
何かが、壊れた。
美雪はどうした。
机の側から、美雪がしゃがんでいた場所を眺める。彼女は既にいない。探すと、ベッドの下に潜り込んでいた。
彼女と目が合う。口を動かして、彼女は言う。
『けいさつに れんらくしろ』
そんな事を言って、この状況で電話なんか掛けて良いのだろうか。
犯人はきっと、こちらを警戒している。何もない一般人と区長なんて、さっさと部屋に押し入って撃ち殺してしまえばいい。
そうしない理由が一つだけある。
美雪、つまりは機械化能力者の存在。
犯人は、彼女が機械化能力者であることを知っているか、私達がどちらもそうである可能性を考えて、不意をつくことしか考えていない。確かに、基本的には機械化能力者だろうが見た目には変わらないのだから、誰だろうが警戒するという考えには、私だって同じ意見だった。未知の機能を持った機械化能力者ほど、この現代社会で怖いものはない。
また銃声があって、窓が割れた。
心臓に悪い音がする。
死が、暴力的に振りかざされている。
風が吹き込んでくる。
その騒がしさに気を取られそうになる。
どうすればいい。警察には、電話しか通じないだろう。そんな隙を見せると、久瀬川は撃ち殺される。久瀬川に電話をさせるか。
「区長、端末を持ってますか?」
「……ごめん、ないわ」彼女は謝る。「秘書に連絡させてるから、自分じゃ必要ないのよ……。遊びなら、家のパソコンで十分だし……」
「秘書の持ってる端末のアドレスはわかりますか?」
窓の外を眺める。街が見える。かすかに見える、腹が立つほどきれいな青空が気に入らなかった。
彼が、窓が割れたことによって何かを察してくれればいいが……。
「わからないわ、ごめんなさい……本当に……ごめん」
「いえ……いいですよ」
入り口は、きっと犯人が見張っている。この部屋からは出られないか。
茅島さんなら、
茅島さんだったら、こういうときどうしているのか。
窓から飛んで出る? 二階か。不可能ではないだろうが、なにせ植え込みどころか庭も存在しない住宅だ。この高さと言えど、コンクリートやアスファルトに打ち付けられれば、ただでは済まない。足でも折れたとして、その間に銃撃されれば、なんの意味もない。
精密女がいれば解決するのか。彼女の両腕は、銃弾を防ぐことくらいは可能だし、稼働速度も十分だった。あの女に、拳銃なんかは通用しないのかもしれない。
どうして、こっちにいないんだ、あの女……。
「彩佳……」
美雪が、ささやくように私を呼んだ。見る。端末を指している。
察して、メールを開く。
美雪からのメッセージ。
『私が入り口から飛び出して囮になるよ。その間に、彩佳は区長を連れて屋外に逃げて』
バカなことだ。
私は彼女を見つめて、そして首を振る。
美雪は頷かなかった。メールを返す。
『無意味』
それだけ打って送信する。
かと言って、
なにか策があるわけでもなかった。
メール。
『じゃあなにか、使えるものはない? こっちからじゃ、よく見えない』
言われ、私は見回す。衣類や、小物、くだらない資料。生活雑貨。そんなものしか無い。
なにか無いかと思って、背にしている机の引き出しを開ける。
拳銃や、スタンガンや、長尺のナイフや、なにか武器になるものがあれば良いのに、
見つかったものは、アイスピックのようなもの。ヤスリの一種だろう。青い取っ手に装着された金属部分は細長く、全体的に何かを削るためにざらついていて、そして先は尖っている。
典型的な有尖無刃器だった。突き刺すしか、その用途は思いつかなかった。
それを美雪に見せる。
これで、何が出来るかどうかは、私にはわからなかった。
拳銃よりも早く相手の眼球にでも突き刺すことが出来れば、脱出のための手段だと数えてやってもいいのに、私も美雪も、ともすれば区長にも、そんなことは不可能だった。
どうする。
これで、区長を人質に取るか? 何を血迷っている。犯人の狙いは区長ではないか。
せめて、犯人の顔でもわかれば、写真にでも収めれば、ここで死ぬ価値だってあるというもの。
写真を撮って茅島さんに送信する。
もうそれ以外に、私の人生の使い道はなかった。
逆に私が囮になって、美雪に撮影してもらうのがいいか。
告げようとした。
けれどその時、窓の外から声が聞こえた。
「おーーーい、加賀谷さん、いるのかー?」
――久喜宮。
どうしてここにいるのか、そんなことはもう、どうだって良かった。
判断は一瞬だった。私は端末を開く。
久喜宮へメール、すぐに打ち終わる。
『誰かに襲われています 銃を持っています』
それだけを送信する。
その数秒後に、階下で扉が開く音、そして駆ける足音。
銃声。
銃声。
銃声。
部屋の入り口に、気がつけば人の気配はない。けれど流れ弾に当たることもある。
じっとした。
耳を塞いだ。
別に死んだって良かったのに、そうするのが当たり前だと思ったからそうした。
怯えていると思われたのか、久瀬川が私を抱きしめる。
「大丈夫……」
嬉しくもなんともなかった。
申し訳ないと思った。
私は、別にあなたの命より茅島さんの利の方が大事だと考えるような、軽薄な女だから、気を遣ってもらう価値なんてないのに。
階下の銃撃戦は、いつの間にか止んでいた。
登ってくる足音。
それが犯人のものなのか、あの不良刑事のものなのか、わからない。
息を呑んでじっとする。
声。
「加賀谷さん、ここか?」
入り口の方から聞こえた声は、久喜宮だった。
「刑事さん……」久瀬川が顔を出してへたり込んだ。「良かった……」
私も立ち上がって、ベッドの下の美雪に手を貸しながら、久喜宮に尋ねる。
「犯人は……?」
「逃げたよ」彼は指を上に向けた。「一階で撃ち合って、それから三階の方に追い詰めたんだが、そこの窓から、隣のビルの方に飛び移って逃げた」
「大丈夫だったんですか? 怪我は?」
「素人の弾なんか、そうそう当たるもんじゃないさ。あんたらも大丈夫そうだな。犯人も外したってことさ」
美雪がほっとした表情を浮かべて、服についた埃を払ってから訊いた。
「でも、久喜宮さんどうしてここに?」
彼は部屋の様子を確かめながら答えた。
「たまたま通りがかったんだよ。そうしたら、外で区長の秘書って男が狼狽えてるじゃないか。銃声がして、窓が割れたからってな。中に誰がいるのかを聞いて、加賀谷さんがいるって聞いたから声を掛けてみた。平気そうならそのまま声で返事をするだろうし、ダメなら何もないかメールで返ってくる。結果は、後者だったな……」
「ありがとうございます」私は礼を言った。そうして、彼に私たちが何をしていたのかを伝えた。
彼は「なるほどな……」と呟き、コンピューターを確かめた。
私も、今気付いた。銃弾が当たったらしく、コンピューターは壊れていた。呆気ないものだ。
「中身は調べたのか?」
久喜宮が美雪に尋ねた。彼は、美雪のクラッキング技術を知っているが、黙認している。
「うん……特に、目ぼしい情報は無かったですけど……」
「犯人に心当たりはあるか?」
「いえ……ないです」
「どうせ、過激派よ」久瀬川は未だに怯えながら、口を開いた。「こんなことなら、もっと護衛をつけられる法案を通しておくべきだったわ。あいつら、私のことが嫌いなのよ」
「拳銃を持っていたとなると……ここへ入るあんたを殺しに来たってことか」久喜宮はパソコンから離れた。「なにか恨まれるようなことやってるのか?」
「そんなの、区長ともなれば、何しようが気に入らない人間は出てくるものよ……」
久喜宮は周辺を確認すると、端末を取り出して警察へ連絡した。
そう言えばこの男、いつまで非番なのだろう。拳銃を持ち歩いていることから、クビになったとは思えないけれど。
その後、久喜宮の簡単な聴取があり、十二時には開放され、私達は館へ戻った。区長は、秘書とともに区役所へ帰った。
「今日は、ここから出ないわ……泊まり込む」
彼女は、疲れた様子で、そう言い残して消えた。
館では、岡芹の作る昼食を、セナと一緒に食べた。その間には、彼女から前区長の自宅へ言ったときのことを詳しく尋ねられたが、口にするのが怖いと思った。
それでも美雪は説明した。大した自宅ではなかったことと、特に収穫がなかったことと、銃を持った人間に襲われたこと。セナは驚いていた。自分の住んでいる範囲で、そんな発砲事件なんてあったら、私であれば引っ越しを考える程度だった。
「区長は」美雪が食べ終わった皿を見つめながら言った。「下層の過激派じゃないかって言ってるんだけど……」
「下層っていうか、スラムですかね……」セナが答える。怯える様子は、意外にもなかった。「あそこは槇石と馬郡を両方嫌ってることから……多分、美楽華区の転覆とかを、きっと考えてるんです」
それを聞いて、岡芹が口を挟む。
「スラム街なんて、そんなのあったなんて知りませんでしたよ。上層にいると、下層のことはわからないもんだなあ」彼は皿を片付けながら喋った。「でも下層の人の差別意識が異常なのは感じますよ。セナさんも、経験有るでしょう。私も、下層の人になにか言われたことはあります。スラムの人かどうかはわかりませんけど、そのせいで、あまりいい感情は持っていませんよ。悪いとは思っていますけど」
「…………まあ、私もそうですけど」セナは言う。
「セナさんは、あまり家から出ないほうが良いでしょうね。この家なら安全です。順吉さんが殺されたあとで言うのは、なんですけど……」
私は、顔に手を置いて考える。
この区はかなり危険な状態にまで達している。暴力に対してなんの抵抗力もない私達ふたりだけでは、これ以上ここに滞在するのは、まっとうな判断ではないだろう。きっと、施設に報告すると、手を引いてこの場を立ち去るように言われる気さえした。
茅島さんたちと、合流したほうが良いのだろうか。
美雪も、そう言いたげな表情で私を見ていた。
……。
駄目だ。
「ごめん」私は立ち上がって、美雪に言う。「ちょっとトイレ」
食堂を出て、トイレに入り、スカートも下ろさないで便座に座った。
茅島さんに会うことを考えると、
何故か気持ちが悪くなってくる。
吐きたい。
それは罪悪感の現れなのか。
それとも、もう彼女のことなんて、嫌いになってしまったのか。
深呼吸をして、
目を閉じて、
首でも吊るようなイメージをして、
この心臓が止まって、
内臓の機能が終わってしまうことを願ったけれど、吐き気は収まらなかった。
まだ会いたくないんだ。
右手が痛い。
包帯。ずっと、なんで治らないの。この怪我。
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