ふくみ1 13日 23時

 クラブに行った日、その二日後になるのだろうか。もう頭の中で日付すら把握できなくなっていることを、ふくみは自覚する。おそらく、その二十三時だった。

 あの日はすずめの働くクラブに行ったけれど、孟徳のバンドメンバーは、自分たちの演奏の完成度が不安なために直前で練習を挟みたい、ということで来なかった。ふくみは、ただその地下に存在するクラブに無理やり連れて行かれて、耳の機械が駄目になってしまいそうなくらいの轟音を聞かされただけに過ぎなかった。普通の耳の人間だって、あんなものを聞いていたら、なにか聴覚に異常が出るんじゃないかと思ってしまったが、美雪にそういった異常がない事から、書物や映画を観ていると視力が落ちるみたいな大昔の小言を、自分から捻出してしまった事実に、辟易としてしまった。

 曲を流しているすずめは、楽しそうだった。孟徳は練習には行かずにクラブで自分の時間が来るまで騒いでいた。精密女は腕を組んでぼーっと、その様子と客の顔ぶれを眺めていた。ふくみは、頭がくらくらするような感覚を我慢しながらその場にいただけだった。

 終わると孟徳のバンドを見に来いというが、気分すら悪くなっていたふくみは断った。スラム出身のメンバーのことは、孟徳に任せた。

 その後は精密女と一緒に、下層の街をまた歩いた。なんの収穫もないと言えば、それまでだったが、いつもと違ってその仕事の進み具合に、もはやなんの焦りも感じなかった。

 館に戻って眠った。それがその日の午前七時。次の日は、また警察の取り調べが入って何も出来なかった。出歩くな、と徳富刑事が釘を刺した。だったら、館でも見張っておけよ、とふくみは口に出して言ってしまいそうになった。

 警察の取り調べを終えると、外出禁止時間になっていた。死体が発見されたときと、尋ねられたことはそう変わらなかった。あの時何をしていたのか、だとか聞き飽きた質問が繰り返されていた。外出可能時間に何も出来なかったが、警察のせいだと思えばさらに責任感も罪悪感も消え失せていた。

 そうして二十三時になった。警察から現場への立ち入りと、遺品の整理を許可されたので、孟徳と矢畑は豊人の部屋でもう寝る時間だと言うのに、扉を開けて騒がしく働いていた。耳の良いふくみには、それが妙に気になってしまって、結局遺品整理を手伝う流れになった。精密女も、力仕事なら任せろとでも言いたげに混ざった。

 現場は綺麗になっていた。警察が来たのは、掃除という意味合いもあったのかも知れない。確かに、ずっと血みどろの部屋しておくわけにもいかないだろう。部屋の様子さえデータでスキャンすれば、殺人現場の再現はいつでも可能だった。

 豊人の机のあたりを「このあたりで親父が死んでたんすねえ……うへえ」なんて声を漏らしながら孟徳が整理をしていると、突然ふくみを呼んだ。

「茅島さん、なんですかねこれ」

「なんで部外者の私よ呼ぶのよ」ふくみは呆れながら、彼の元に行った。「矢畑さんに聞きなさいよ」

「いや、だって見てくださいよ」

 孟徳が示したのは、一枚の紙。何かの写真か? わざわざ印刷するほどのものなのかと思ったが、覗き込むとふくみの期待は外れた。

 単なる、テキストだった。よくわからない文章がそこに書かれている。

『下層 Ninararaniti』

 ふくみたちの様子が気になって近寄ってきた矢畑と精密女も、それを覗き込んで首をひねる。

「なんだ?」矢畑は呟く。「見たこともないですね」

 その時声を上げたのは、精密女だった。

「あ、ふくみさん、これって……」

 思い当たることなんて、ひとつしかなかった。

「これ、彩佳たちが調べてる暗号なんじゃないの……?」

「下層って書かれてますね。きっと向こうで、下層が無いから解けないなんて愚痴を漏らしてますよ」精密女がふふ、と笑った。「送信してあげましょう」

「ええ、任せる」

 そう答えたふくみに対して、精密女がなぜか呆れたような表情を一瞬見せたが、すぐに彼女は端末で、下層の暗号を撮影し、送信する。

 ふくみたちの様子を見ていた孟紀が、興味深そうに尋ねてきた。

「ねえ茅島さん、彩佳ってのは?」

「……今フリーフォール館の方に来てる友達よ」

「へえ。なんで一緒にいないんです?」

「……依頼が別だから」

「ふーん」孟紀は訝った。「それだけですか?」

 なぜこの彼は、そんな方面ばかり鋭いのだろう、とふくみは髪の毛を掻き上げる。彼はきっと、ふくみが彩佳のことを説明するまで諦めないような気がした。

 懺悔室みたいだ。誰か、全く知らない誰かに、自分のことを話せば一方的に楽になるんじゃ無いかと言う感覚があった。

「喧嘩してるの。それだけよ。原因は……お互いを大事にしすぎたこと」

 あははは、なんて孟紀は馬鹿にしているんだか、本気で面白がっているのか、雰囲気を溶かそうとしているのか、よくわからない笑い声を上げた。

「なんですかそれー。そんなのさっさと謝っちゃえば済むんですよ。どっちが悪いだなんだって考えてるわけでしょ? 細かいこと考えるから駄目なんですよ。謝ったら、向こうが増長するんですか?」

「彩佳は……そんな子じゃないわ」

「でしょうねえ」彼はにやにやと気味の悪い笑みを浮かべたままだった。「しかし茅島さんにも、そんな人がいたんですねえ。もっと淡白な人間かと思っていましたよ」

「もう、どう言う意味よ」

「茅島さん結構クールですからね」

「普段はもっと明るいわよ」

「自分で言いますかそれ」孟紀がふくみを指差す。「自分で言うくらい落ち込んでるじゃないですか。よし、じゃあ俺に任せてくださいよ。なんかこう、きっかけを作りますよ。ね?」

「ね、じゃないわ」

 ふくみは顔を背けた。

「大丈夫よ、きっと……なるようになるから……」

「本当ですか?」

「ええ……私を知っているのは彩佳しかいないもの」

 その言葉の意味を、彼が理解したのかはわからなかった。

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