彩佳6 11日 21時

 二十一時。

 美雪と私はリビングでノートパソコンを広げて、調べ物をしていた。美雪が、前の区長のことを調べるのが良いんじゃないか、と言ったのが原因だった。私もそれに同調した。セナが、前の区長のことに詳しいのを見て、調べなければならないという焦燥に駆られたまでだった。

 調べると、インターネットには彼のことが詳しく書いてあった。まあ、一つの区を代表する人間のことくらい、簡単に見つかるものだろう。

 美雪は私が読むスピードに合わせて、ページをスクロールさせてくれた。

 舘田キンジ。四十五歳。男性。五年前から美楽華区の区長を務めていた。選挙で選ばれたと久瀬川は言っていたが、間違いなくその通りだった。彼が区長を務めている間、この区独特と独裁的な政治体制にも関わらず、強行的な政治や私腹を肥やす不祥事もなかったとされる。その一方で、前々から美楽華区の独裁政治体制自体に不満を持っていた過激派住民の、小規模な犯罪行為は多発していた。おそらく、舘田前区長が粛々とした仕事をしていることが気に入らなかったのかも知れない。

 彼は機械化能力者であることを公言し、左腕を機械にしていた。機能のことは書いてはいなかったが、これは例のパーツを搭載していたのだろう。中央コンピューターにアクセスする区長権限こそが、彼の機能だった。

 彼の死は去年。交通事故だとされた。事件性はない。突然にリーダーを失った区民は、悲しむものと喜ぶものの二極化だった。在任期間は残されていた。突発で選挙を行うにも、区長の権限がなければそれも上手く行かない。困り果てていた区役所は、槇石が抱えていた候補者、久瀬川ミコを代わりの区長に添えた。当然反発は大きかった。選挙で選ばれたわけでもない人間に、そんな独裁的な権力を与えるなんていうのは、私としても正気だとは思えなかった。

 それを分権という形で、上層の槇石家、下層の馬郡家、に力を分けることにして、過激派等の不満を抑え込んだ、らしい。その分権が具体的にどういった方法なのかは私にはわからなかった。

 前の区長に関する情報は、そんなものだった。あとは区長になる以前のパーソナルなデータや、趣味、考え、評価、功績などが書かれていた。興味を持ったほうが良いのはわかるけれど、私はそのあたりで読むのを止めた。

「……こんなもんか」と諦めたように、美雪は呟いた。

 結局、どういった人間なのかは、上手く伝わってこなかった。顔写真すら無い無機質な文字列が、人間の生きた人生から抽出されたものだという事に対して、変な感情を覚えた。当然、暗号のことなんて、その取っ掛かりを掴めすらしなかった。

 区役所にも行き、前の区長のことも調べた。その後は? どうすればいいのだろう。考えられるのは前の区長の仕事場と、彼が住んでいた家。仕事場は、何かあれば久瀬川が連絡をしてくれるだろうが、勝手に自宅に押し入るのは、何処にアポイントを取れば良いのか。

 考えていると、リビングに敏弘が入ってきた。

 彼は片手にワインボトルを持っていた。これから寛ぐのだろうか。

 美雪が彼に気づいて、申し訳無さそうにコンピューターを畳む。

「ああ、すみません、邪魔ですよね」

「いや、構わないよ……」敏弘は片手で私達を止める。「ちょっと……話でもしたい気分だったんだよ」

 そう言って、彼は美雪の前方に腰掛けた。片付けるタイミングを失った美雪は、すみませんと呟きながらまたコンピューターを開いた。私は、立っているのも悪いと思って、美雪の隣に座った。

 敏弘はワインボトルを飢えた手付きで開けて、グラスにその液体を注いだ。私はワインのことは知らないし、どちらかと言えば嫌いだったから、こんなものを飲む人間のことを気味が悪いとすら感じていた。ビール嫌いの人間からすれば、私だってそうだろうけれど。

 なんとも言えない匂いが、鼻に漂ってくる。明らかに十分に冷蔵されていると思われるボトルをテーブルに置いて、彼はグラスに入っている液体を、自らの口に、顆粒の薬みたいに流し込んだ。

 彼の服装は、未だスーツだった。疲れているのだろう、顔に生気はなかった。服も、ボタンがほつれて、穴が空いていることが目立っていた。それを、取り繕うつもりもないみたいだった。

 会社で疲れるまで働いて、娘には嫌われ、親は殺された、壮絶な人間がそこでワインを飲んでいる。

 彼はしばらく目を閉じて、身体にアルコールが浸透していくのを待ち、そうして開眼して、私達に向けて、言う。

「君たちの施設のことは、知ってる。機械化能力者の犯罪を調査するのが仕事らしいね。きっと……上層の警察よりも、犯人にたどり着く可能性は、高いんだろうね」

「……まあ、警察は、予算も人材もなくて、国家や区の犬だとか、税金で対抗策として機械化能力者を雇うのは駄目だとか、そんな偏見と闘っていますから」美雪の言うその言葉には、様々な意味が含まれているようだが、私にはよく理解できなかった。

「……セナが、同級生にいじめられていたそうだね」

「ええ。下層のガキらしいんですけど」

「……ガキか」敏弘は笑う。「ガキかどうかはわからないが……犯人は、下層の人間だろう」

 突然、そのような断定が飛んでくると、私も驚いてしまう。

 美雪はそれでも冷静に訊いた。

「どうしてそう思うんです?」

「槇石家は、昔から下層の人間を快く思っていない。槇石家というのは、つまりは殺された親父までの話さ。私は……そこまでは思ってはいないが、親父は下層の人間が嫌いだったんだよ。それを、公言していた。だから……下層の資産家、馬郡豊人とはひどい確執があってね、向こうも、我々上層の人間を目の敵にしているのは変わらないがね」

 敏弘は、端末を起動させて、写真を表示させた。それを私達に見せた。

 女の人が写っている。自然な、咲いた花みたいな笑顔だった。多分、私にはこんな表情なんて出来ないって思うくらい、幸せそうに笑っていた。髪が長くて、綺麗だった。それが、写真加工による補正だとしても、笑顔までもが嘘だとは思えなかった。

「妻だ。もう、別れたがね。正真正銘の、セナの母親さ」

 そう言われて眺めてみると、セナに似ているような気がするが、私は自分の母親になんて少しも似ていないし、似ていると言われても少しも嬉しくなかった。だから、そのまま何も言えなくなった。

「……今は、何処に?」美雪が尋ねる。

「美楽華区を出て……何処かへ行ったさ。何年も会っていないし、連絡も取っていない。セナにも会わせたことはない。妻は……もうこんな街、気持ち悪くて住めないんだと言って、出て行ってな。彼女は、この区の下層の出身だった。私達は上層の人間と下層の人間で結婚したんだよ。今でも、そんな人間はほとんどいないみたいだよ」

「何が原因で、奥さんはそこまで考えるようになったんですか?」

「親父が、下層の人間を嫌っていたからさ。別れろってしつこかった。もちろん、そんなものに負けたくはなかったから抵抗したさ、街を出ようともした、だけど、私は……親父の会社でしかやっていけない大したことのない人間だった。外に出て上手くやっていけるほど、能力も人格もなかった。結局街を出られず、ずるずるとこの街で暮らした。そうしている内に、街の偏見がマシになるとは思ったが、逆に激化した。妻は街を歩けば暴力にさらされたし、私も同じ目に遭った。ついに親父からは、あの女と別れない限り会社を追放すると言われた。セナも生まれていた。仕事を失うわけには行かなかった。私は困り果てて…………妻を捨てた。セナは……こっちで育てると言った。経済的にも……親父に捨てられさえしなければ、こっちの方が余裕があったからさ。妻は、この街すべてが嫌になって、出ていったよ」

 敏弘は、更にワインを飲んで、注いで、薄暗い話を私達にぶつけるように続けた。

「私自身は、別に下層がどうとか上層がどうとかは言いたくないんだ。妻が下層の人間だったからね。今でも、別に……妻が嫌いになったわけでもない。親父も……嫌いだが、殺すほどじゃないさ。さっきの話に戻るが、下層には過激派が多いんだ。上層ほど、裕福な暮らしをしていないという経済的な面が理由だろう。下層への偏見じゃなくて、これは事実さ。そんな人間が恨むのは、当然現在上層どころか区長をも牛耳っているうちの親父ってことさ。犯人は、その下層の過激派だと思うよ。下層には、スラム街だってあるからね」

「スラム……?」

「ああ。下層の中でも……いや下層すら追い出された貧民さ。彼らの存在は近年問題視されたはいたが、ついに前区長の代でも解決することはなかった。あそこも、上層はおろか、下層すらも標的にしていると聞く、が、誰も怖くて近寄らないから、その実態もよくわからないんだ。あいつらも危険だ。調査は……警察に任せたほうが良い。いずれ、捜査の手も入るだろう」

 喉に詰め物をされるみたいになる話だった。

 スラム街……下層……そして上層との諍い、確執。

 私達の関わっているものは、私が考えている規模よりもずっと大きいことを知らされる。

 美雪は顔を強張らせていたが、やがて首を振って尋ねる。

「順吉さんから、なにか暗号のことは聞いていませんか?」

「暗号か……」敏弘は呟く。「あれは、区長権限のパーツの在り処を示すものなんだよ」

 あっけないほどに直接的な答えを彼からもたらされて、私は小さく声を漏らした。

「前の区長の遺言に、この暗号はパーツを示すものだと記されていた。前の舘田区長は、死の一年前から、必要な時以外はパーツを装着していなかった。わざとらしく、別の腕を取り付けるなんてこともしないでな。きっと、狙われていることが、わかっていたんだろう」

「犯人がパーツを狙ってるっていうのは……」

「おそらくは……本当だろう。中央コンピューターにアクセスできる権限を有しているパーツだとは君たちも知っているだろうが、それが、もし過激派の手に渡ればどうなるか、君たちだって想像できるだろう?」

 そうは言うものの上手く想像できなかった私は、自分の想像力のなさを恥じた。過激派が中央コンピューターにアクセスすれば……彼らの思い通りに街を動かせるということか。それで具体的にどんな酷いことになるのかは、私の頭ではよくわからなかったが、とにかく大変な事態になるのだけは、十分に理解した。

「……セナは、元気か?」

 一緒に住んでいるっていうのに、彼は離れて暮らす娘の様子を窺うみたいに、そう口にする。

 ずっと黙っているのも悪いと思って、私は頷く。

「ええ……まあ」

「そうか……私は、父親らしいことは何も出来ない。する資格だってない。だから、仲良くしてもらっているのはありがたいよ」

 敏弘はワインを飲み干した。ボトルにはまだ残っているし、酔いが回っているようにも見えなかったが、彼はそれ以上、ワインを注ぐことはなかった。

「……頼む」敏弘は、言う。「犯人を見つけてくれ。そして……セナが危険な目に遭わないように……協力してくれ」

 私は彼を見つめながら、セナの言葉を思い出していた。

 ――お父さんは、嫌いです。

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