彩佳4 11日 15時
十五時だった。
私達は、岡芹の出してくれた車を降り、目の前にそびえ立っている区役所を見上げた。
中央コンピューターなんかもある、この区の要となっているくらいには重要な施設だったのだけれど、その前評判からイメージされる建物の仰々しさと、実際の区役所は違って見えた。簡単に言ってしまうと、想像よりもみすぼらしかった。
大きさだけはある。周辺の建物よりも、ずっと巨大な高層ビルだった。何階建てなのか、指で数えたってきっと私なんかでは、一日中掛かってもわからないのかもしれなかった。
けれど、ただ大きいビルが建っている以上の感想を、私は抱くことが出来なかった。なんの前触れもなく、街中に溶け込んでいるからだろうか。実際に、ここが区役所だと説明されなければ、素通りをしていただろう。
岡芹は、区役所にまで送ってくれたは良いが、彼はこのあと買い物などの用事があるというので、私達を置いて車を出した。帰りは歩いて帰らなければならないが、窓から車外を見ている限りは、大した道のりでもなさそうだった。
ここに残っているのは、私と、美雪と、セナ。
美雪は、重そうな荷物を担ぎながら、首だけ回してセナに尋ねる。
「セナちゃんは、区役所に来たことある?」
「ありません」セナは首を振った。「おじいちゃんも、そんなに来てたわけじゃないですし、お父さんも無いと思います」
私達は中へ入り込んだ。無機質な自動ドアが開くときに、古臭い駆動音が聞こえたのが、変に不安に感じた。
広いエントランスだった。大理石みたいな模様で作られた壁面、そして赤いカーペット。そこには判で押したように受付があって、比較的顔の作りが優れている女性が座っていた。私達は彼女に、槇石の者ですがということを伝えると、こちらが用件を伝える前に、彼女は全てを理解して、区長の待つ部屋への道順を説明した。
なんてことはない。ただエレベーターで二十階に上って、一番突き当たりの部屋にノックをして入ればいいだけの話だった。私の大学へ入るときのほうが、まだ手順が多い気さえした。
私達はその通りにした。別段、区役所なんて面白みのある施設でもなかった。全てが効率的に存在しているが、機能美のような魅力を感じることはなかった。無機質で、排他的で、別に人の温かみが欲しいわけでもなかったのに、そんなプラスチックで出来たみたいな部分が、なぜだか気になってしまった。
受付の脇にある、花瓶がいくつか置いてある廊下をまっすぐ進んで、突き当たりにいくつかあるエレベーターに乗り込んで、二十階を目指した。セナも美雪も、区役所に興味でもあるのか、私が気にもとめないようなどうでも良いところを眺めていたりした。
二十階にたどり着いて、エレベーターを降りた。廊下の様子は、一階とあまり変わらない。さっさと進んで、突き当たりに該当する部屋を、私は遠慮がちにノックする。
扉の隣のプレートには『応接間』と書かれていた。この階には、その他にいくつか部屋があった。会議室がその殆どだった。応接間の他に、人の気配は感じなかった。廊下にいくつかある窓からは、あんなに薄暗かった上層の街の上部が、人の頭頂部と同じ具合に、私に無防備な格好をさらけ出していた。街を行く人は、ここからでは小さすぎて、よく見えなかった。
中から応答があって、入ってくれ、と端的な返事が聞こえた。私達は、礼を欠かないようにと断りながら室内へ入った。
応接間、と聞いて想像していたものよりも、ずっと簡素な設えだった。部屋の中央に椅子と、背の低い机。少しでも華やかに見せるための花と、よくわからない巨大な抽象画が飾ってあって、その脇に給湯室への扉があった。ここにも、大きめの窓がある。覗き込んだところで、さっきみたいな景色が現れるだけだろうと思って、私は興味も持たなかった。
部屋にいたのは、女の人が一人だけだった。深々と、家で寛ぐときみたいに、ソファに腰掛けていた。
「槇石さんの使いだって? 大変だったわねえ」
私が面食らって立っていると、セナが頭を下げて挨拶をした。美雪も同じようにしていた。私だけが何もしていない無礼な人間に見られそうだったので、私も従った。
なんだ、ということはつまり、この女が……
「区長の、久瀬川ミコです。よろしくね」
その女は、自らを区長だと名乗った。私は信じられないまま、座るように促されたので、美雪とセナと一緒にソファに座った。
区長がこんな若い女だとは、私は想像すらしなかった。もっと、屈折した老人が就くべき職業だという偏見が私の中にあったことが原因だろうが、久瀬川の方に、政治家のような威厳を少しも感じられないこともその一端だと思った。
年齢は三十くらいだろう。頭を明るい茶色に染めていて、くるくると毛先を巻いていた。スーツを着込んではいたが、ボタンは開放されていた。私は彼女を見て、学校で同じクラスだった、人のパーソナルで暇を潰すような、私の嫌いな連中に似ていると思った。
給湯室の扉が開け放してあった。目の前には、用意されたお茶。ところどころ、コップの縁から中身が垂れていた。区長が、慣れない手付きで用意したのだろうか。
自己紹介を終えた私達に、久瀬川は私達にお茶を飲むように勧め、そして尋ねる。
「槇石さんのことは、既に聞いてるわ」両手を合わせて、セナに向かって同情のような表情を向けた。「残念だったわね……。それで、例の暗号は、あなた達が調査を続けてるの?」
「はい」美雪が答えた。「前区長が残した暗号だと聞きましたが、良ければその前区長のことを教えてもらいたいんですけど」
「ええ、良いわよ」久瀬川が頷いた。声には責任を欠片も感じなかった。「と言っても、私だって面識があったわけじゃないから、基本的なことしかわからないけど」
「私達は、中央コンピューターのことも知らないので、それでも構いません」
「中央コンピューターねえ」久瀬川が頭をかいた。髪が揺れた。「確かにこの区役所にあるけど、直接見たことは無いのよね。放っておけばある程度の事務処理は勝手にしてくれるし……区長といっても、中央コンピューターのほうが偉いんじゃないかって思う時あるわ。それに、私は正式な区長じゃないしね」
「パーツのこと、ですか」
「うん、そう。今は名目上、街への影響力が大きい槇石さんの援助を受けている私が区長をやってるだけで、コンピューターには認められてないの。だから、まあ例えば法改正なんかは、私だけじゃ無理よ。前の区長は、一人でコントロールしてたみたいだけどさ」
「前の区長は、どういう人なんです?」
「会ったこと無いから、わからないけど、リーダーシップがあって、区を任せられる人だったよ」久瀬川は嫌味でもなくそう言った。「この街のシステム上、まともな人間が頭に立たないと駄目なんだけど、彼はそれを満たしてたってこと。槇石とも馬郡とも繋がってなくて、選挙で選ばれた、正真正銘のリーダーだった。でも……去年に事故で亡くなったの」
「事故……」美雪は、わかってはいるようだったが、それでも飲み込み辛い感情を抱いたような顔をした。「それって、どういう」
「交通事故だってさ。交通量の多い上層じゃ、べつに珍しくもないわ。警察の調べた範囲では、事件性も無いみたい。自殺をするような人間でもなかったし」
久瀬川はそこまで言うと、急に立ち上がって、背伸びをしながら「あー、煙草が吸いたい」と口にした。
突然そんなことを口走るので、私達は面食らった。こんな奔放な女が区長で、大丈夫なのだろうか。
「ねえ、長くなりそうだからさ、屋上に行かない?」久瀬川が言う。「煙草、我慢できなくなってきちゃった。君たちだって、こんな堅苦しいところで話なんてしたくないんじゃないの? 煙草行こう煙草」
誰も吸わないから、という理由で断れるような雰囲気でもなかった。
私達は区長に着いて、屋上へ向かった。
屋上は、地上から数えると、急激に深刻な寒さを感じるほどの高さにあった。スペースは休憩をするにも物足りなく、ベンチすらこの場所には存在しなかった。それに、風が強すぎるため、落ち着くにも体力が必要だった。
落下防止の手すりから下を見下ろすと、さっきの窓よりも迫力のある光景がそこにはあった。ビルの頭、その連なり、並び方の角度で、土地の地盤自体の傾斜すらもが理解できそうだった。下層は、このさらに低いところにあるのか。まともに陽が当たらないというのも、当然の問題だった。
青空が、近い気がする。地上にいたときよりも、色が濃いような。
この屋上は、異常な寒さがなければ、日光浴にはちょうどよかった。
美雪は区長の近くに暇そうに立っていて、セナは私と同じように手すりに手をついて、自分の住んでいる街を、表情一つ浮かべないで、じっと見下ろしていた。
区長は、強風に煽られながら、それでも壁にもたれかかり、風も寒さも気にすることなく、電子タバコをぷかりと吸う。そして、さっきの話の続きを始めた。
「えっと……何から話せばいいのかな。私と槇石さんの関係?」
久瀬川は近くにいる美雪に向かって首を傾げると、美雪は頷いた。早くしろと思っているのかも知れない。現に美雪は、自分の両肩を抱いて、寒そうにしていた。
「別に、大した関係はないの」久瀬川が言う。「私が区長に立候補しようと思って動いてたときから、なんでか私を気に入って、資金援助してくれていたの。彼の……趣味だったんじゃないかな。余るほどお金があるっていう噂があるしさ。区長になってからも、彼の言うとおりに動いていたら上手く行ってた。そうよね、彼のおかげなんだから……これから私、どうなるのかわからないわ」
そんな悩みを口にするが、彼女は気にしている様子なんて少しも見せないで、また煙を吐いた。
つまり、その話を総合するに、この正式な区長ですらない女には、政治的な決定力はまるでなく、槇石順吉の言いなりになっていたに過ぎないということだろうか。私は自分のその感想が正しいのかわからなくて美雪の方を見たが、彼女はずっと自分の肩をさすっていた。
「……パーツの在り処は?」美雪が顔をしかめながら尋ねた。「知らないんです?」
「わからないわね。区長になる前から、機械化能力者にならなくても良い、とは言われていたから、公言もした。機械化能力者に対する偏見って怖くてね、一般人から何言われるかわからないからとにかくそうしたんだけど……パーツ、結局槇石さんは持ってなかったらしいわね」
それを示すのが、この暗号だというのか。
私は、気になったので暗号のことを区長に訊いた。久瀬川区長は、煮え切らない表情を浮かべて、絶え間なく煙草を吸う。
「その暗号……前の区長の自宅から見つかったって話だけど、よくわからないのよね。槇石さんは、ずっと必死で解読しようとしてたみたいだけど、私は考えたってわかんないから、特に何もしなかったわ。黙って見てただけ」
はあ、と煙だけではないため息を、区長は漏らして、
「これから、どうなるのかしらね……」そうして、セナの方を向く。「セナちゃんのお父さんは、後を継ぐ感じじゃないでしょう? 槇石順吉さんの奥さんももういない、セナちゃんのお母さんもいない……セナちゃんが後継者になるには、ちょっと早すぎるかしら」
セナは、どうにも触れられたくない母親やそのあたりのことを、直接話題に出されて、不快な表情を浮かべたのが私には見えたが、すぐに隠して区長に答えた。
「うーん、まだ早いと思います。お父さんも……おじいちゃんのこと、あんまり好きじゃないみたいですから、継がないと思います」
「あなたは、どうしたいの?」
「……まだ、考えたこともないので」彼女は首を振る。「継ぐなら、大学までは卒業してからが良いです」
「しっかりしてるわ、若いのに」久瀬川が微笑んだ。口から吐き出される煙が、雲を作っているみたいだった。「ちゃらんぽらんで、勢い任せの成り行きでこうなった私とは違うわね」
久瀬川の様子を観察して、美雪が話題を変えた。
「順吉さんを殺害した犯人に心当たりは?」
「ああ、それ、警察にも訊かれたけど、特に無しよ」区長は無責任に首を振った。「そりゃあ、槇石を恨んでる連中なんて……セナちゃんの前で悪いけど、下層とかには掃いて捨てるほどいるの。でもはっきりとしたことは、私からは言えない。彼のプライベートのことも、そもそも仕事のこともよく知らないもの。私は活動資金を出資してもらって、言うとおりに仕事をしていただけ。ちなみに、彼が殺された時間帯は、ここで会議をしてた。おかげで、寝不足なの」
「区長は、誰かに命を狙われるってことは?」
「うーん、どうかな。区長をやってると、正反対の考えを持った過激派に殺されかけたくらいはあるけど、今回みたいな殺し方って、政治犯が好きな方法じゃないでしょ? 関係ないんじゃないかな」さらりと、区長は言う。「過激派のことなら、有名だし、警察で捜査が入ってると思うから、気になるなら尋ねてみたら?」
区長はそう言って、煙草を咥えながら、私の隣まで歩いて、同じように手すりから街を見下ろした。茶色で、明るくて、腹立たしい長い髪の毛が、私の鼻先をかすめて、鬱陶しかった。
彼女は、呟いた。
「セナちゃんが、狙われなければいいけど」そんな、物騒な内容。「槇石を恨んでるなら、当然セナちゃんも標的なんじゃないかな。どう? 狙われたこと、ある?」
「えっと……」困惑するセナ。「まだ、そういう経験はないですけど」
「気をつけてね。何かあったら……私に言ってくれていいから」久瀬川は、そうして私を見た。「このお姉ちゃんたちも、そういう仕事で来てるから、頼って」
「はい。気をつけます。岡芹さん……使用人の人もいるので、大丈夫です」
最後に、美雪は暗号のことを尋ねた。
久瀬川は呆れたように口にした。
「私じゃわからないってば。こんな文字列、見覚えもないわ。ヒントみたいなものも、区役所内で見たって記憶もないわね。まあ、何かあれば、連絡するわ。一応、区長室も心当たりが無いか、調べてみるわ。前の区長も、使っていた部屋もあるし」
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