2章 何処に行ったのか教えて
彩佳1 11日 8時
朝は岡芹に叩き起こされて、寝付きの悪かった私は、呪詛を撒くような不機嫌な顔を彼に隠すこともなかった。
眠い。窓がないのが堪える。この家の住人は、こんな生活をしていて、どうしてこんな朝早くにわざわざ起きるのだろうか。おそらく、夜に出られないというフラストレーションが、彼らをそうさせているのかも知れない。
「申し訳ないんですけど、今日はゴミの日でして」
そう岡芹が言う。私達の部屋のゴミを処理しながらだった。私はそれでもベッドの上を動かないで、そのまま話を聞いたし、美雪だって机にコンピューターを置いて、ジュースを飲みながら遊んでいるように見えた。
「朝は慌ただしいんですよ。朝食はもう少し待ってもらってもいいですか」
岡芹がため息を吐きながら言うが、美雪は首を振って返事をした。
「ああ、良いですよ別に。忙しいなら、外で食べてきます。ね、彩佳」
「え? まあ、良いけど」私は美雪の勢いに飲まれて、何も考えないで頷いてしまった。
申し訳ありません、とゴミを片手にぶら下げたまま、岡芹は会釈をして客室をあとにする。
私は眠い身体を無理に動かしながら、適当にスーツケースから引っ張った衣類に着替えて、美雪とともに玄関へ向かった。
玄関の扉を一枚、発電機の横を通って、二枚目の扉を抜けると、もう忘れてしまいそうだった低い外気温が、私の肌を煽った。
ああ、冬だったな。その寒さを感じてから、ようやく私は今の季節を思い出した。こんな地下室みたいな館に押し込められていたら、昨日までは当たり前に感じていた季節感だって、栓を抜いたみたいに頭の中から消えてしまうに決まっていた。
空は晴れていた。傘は置いて来たが、持ってくる必要はないらしい。突き抜けるような、何処か腹の立つような青空だと言うのに、これからあの無骨なビル群の間を通るのかと思うと、酷く損をしたような気分になった。
美雪が背伸びをしながら、同時に眉をひそめて文句を口にした。
「まったくさ、朝忙しいなら、最初に言ってくれたらなんか買ってきてたっていうのに、岡芹さんも不親切だなあ。ちょっとドジなところがあるのかな」
中庭。草木が頼んでもいないのに視界に必ず入ってくる。ここへ来るときにも通ったのに、私は変な虫がいそうなのが心配になって、身体をこわばらせながら歩いてしまう。
「まあ、晩ごはん食べさせてもらってるんだから、朝までは悪いよ」私は昨日の食卓を思い出しながら言う。変な緊張で飲み込むのに苦労した。「他の人は、朝どうしてるのかな」
時刻は八時半だった。
「彩佳が来るまでの間に、敏弘さんもセナちゃんも、外で食べてるってさ。もう家にはいなかったよ。セナちゃんは学校だってさ」
「ああ、そうか……」
庭を抜けて門をくぐる。歩道と、国道らしい広めの道路が見えてくる。
美雪は端末を使って、気になっていたカフェに私を連れて行こうと手を引っ張った。何が食べたいとか言った欲求も何もなかった私は、抵抗もしなかった。
そんな私達に、声をかけてくる集団があった。
「おい、お前たち」
背後からだったので、私と美雪は、足を止めて身構えながら振り返った。
その場にいたのは、高齢者の男性だった。その後ろに、同じような風貌と年頃の人物がいくつか屯していた。
道でも教えてほしいのか、面倒だな、と私はどうやって追い払うかを考えていたのだけれど、彼は私の考えとは、違った言葉を口にした。
「お前たち、槇石の協力者だろ。何考えてやがる」
高圧的にそう言われて、私達は顔を見合わせる。彼らが、何を訴えたいのかが、少しもわからなかった。
「……確かに私達は、槇石さんに雇われた調査員ですが」
美雪がずいと前に出て、腰に手を当てながら答えると、老人は美雪を見下して、鼻で笑った。随分と不潔な格好を彼はしていた。周りの仲間も同じような装いで、結局の所、交友関係っていうのは似た人間の集まりに過ぎないのかと私は思った。
「は。下らないな。あんたらも、ノコノコとあいつの言いなりになって、とんでもない愚か者だ。いいか、忠告してやる。あいつと関わるのは、今すぐにやめろ。最近のガキは教養ってもんがないのか」
「……喧嘩売ってるんですか?」
美雪が右腕の拳を振り上げそうになったのを、私は見て、掴んで、力を入れて、静止する。
「美雪。関わらないほうが良いって」
「でも、こいつら……」
「家の人に迷惑かけるよ。私達には関係ない」
「彩佳」
「いいから、行くよ」
握りこぶしを作っている美雪の手を、私は強引に引っ張って、その場から逃げる。
「おい待て!」
足音が私達を追った。
男の声から、皮膚の上澄みを削り取っているような、気味の悪い感覚を覚えながら、私達はビルのせいで薄暗くて寒い街中を、なんだか映画みたいに駆けた。
通行人に変な顔をされながら、それでも止まらなかった。
目立っても良い。
あいつらの目の前にいるよりは良い。
捕まるよりは良い。
疲れて倒れてしまっても、構わなかった。これが、私の判断の上で、最善だったのだろう。
十分な距離を稼いでから、ビルの合間に有る路地に入り込む。
壁に手をついて、ゆっくりと息を整えた。
「……はあ、はあ」私は、臭さすら覚える路地裏で、したくもない深呼吸を、嫌いな食べ物を口に入れるときのこと思い出して、やった。「……あいつら、なんだったの。過激派のじいさん?」
「……もしかして、下層の人じゃないかな」美雪が額の汗を拭った。「上層と下層の仲って最悪でしょ? 多分だけど槇石を目の敵にしてて、気になって動きを探りに来てる暇人だよ」
老人の瞳、声色、態度。言動。その全てが、あの家でふんぞり返っている槇石順吉を敵視するものように感じた。私達のような部外者が、館に出入りしている動きを見つければ、何かあるのかと勘繰って、噛みついて来るのが趣味だろう。
美雪は路地裏から通りの方に顔を出して、周りを確認した。伸ばした金髪が、ふわりと揺れた。
「あんまり、上層でうろうろするってのも得策じゃないのかな」美雪が呟く。「うーん。あいつら、槇石の家を監視してたみたいだし……セナちゃんも絡まれてるんだとすれば、ちょっと心配だな」
セナか……。
あの老人たちを目の当たりにすれば、なんとなく子犬みたいな印象を受けるあの少女が、嫌でも心配になって来る。さっきの狂った老人たちが、政敵の血縁に対して何もしないという保証はどこにもなかった。
「セナちゃんの学校の場所くらいは、把握しておいたほうが良いのかな」私が言う。「何かあったときに、直ぐに迎えに行けたりもするわけでしょ」
「うん、そうだね」美雪は頷いて、端末を操作する。そこには周辺のものと思しき地図が表示されていた。「学校は……ここだろうね。えーっと、ここから、ちょっと歩くみたい」
慎重に路地から出て、私達は、地図の指し示す方角に向かって歩き始めた。同じような風景が続くので、自分がきちんと前に進んでいるのかどうかすらも、不意にわからなくなってしまいそうだった。頭上にいくつも並んでいる看板の文字に、私は敏感になっていた。そのくらいしか、風景として移り変わるものがなかったからだった。内容は、学習塾、野球用品、中華料理、運動靴、などがキラキラしたネオンで書かれていた。
セナの学校は、ビルの中にあった。というよりも、このビルディング全てが彼女の学校だった。築年数は計り知れないが、上層の中では伝統というか、無駄に古臭い学校のように、私の目には写った。いずれ近いうちに、老朽化が問題となりそうなほど、その壁は黒ずんでいた。
エントランスにはカードキーを通す装置が設置してあり、部外者の侵入を許していなかった。さらに、窓は二階以上にしかない。ちらちらと、いくつものガキの頭が、ここからでも確認できた。
近くの小屋には、ガードマンも居座っている。その行き帰りはともかくとして、学校でのセキュリティという面では、私が抱くほどの心配はないだろう。あの下層の老人たちが、徒党を組んできたって、ここへは一歩も侵入できない。
美雪は、それらを確認すると、ボソリと呟く。
「これなら……特殊な機械化能力者でもない限りは、入れないだろうね」
「急に心配になること、言わないでよ」
「あはは。ごめんごめん。知り合いに、鍵を開けるのが機能の人がいるんだけどさ、珍しい機能らしいから、そうそういないみたいだよ」
「……だといいけど」
「彩佳、大丈夫だって。警察だっているんだしさ」美雪は私の手を握る。冷たい。「じゃあ落ち着いたところで、最初に行こうとしてたカフェに向かおうよ。デザートも美味しいらしいから、一緒に食べようよ」
なんて、不安分子のことを頭から綺麗サッパリと消し去ったように語る彼女の横顔の無邪気さが、時折羨ましくもなった。
美雪の案内したカフェは、人気があるのか他に行く場所がないからなのか、早朝にしては多めの人々が腰を下ろして食事を摂っていた。
上層全体の無機質なイメージとは違って、アメーバみたいなオブジェクトがいくつか並べられた、ある種のトリップ感すら覚えるサイケデリックな空間だった。個人経営の店かとも思ったが、小規模なチェーン店らしく、その店名にも聞き覚えはあったが、実際に足を踏み入れたことはなかった。
配膳される食事の匂いと、入り口付近にある喫煙所から漏れ出る煙草の匂いが入り混じって、独特の奇妙な雰囲気を作り出している。レトロという感情にも近かった。
人が多いと入っても、店内は小さな変な色のテーブルが無数に設置されており、案外余裕のあるキャパシティを有していた。待ち時間もなく、私達は席へ招かれて、適当に食事を頼んで、最後にはデザートも付けた。
窓の近くで、外が見える。三階だった。歩道を通る、人間の頭頂部がはっきりと見えた。ここから目の前にあるフォークを、彼らにまっすぐに落としてみたい衝動に駆られた。どれくらいの痛みが走るのだろうか。
食事は、店内ほど馴染めない味でもなかった。美雪が何故ここに来たいのか、その理由はわからなかった。施設にいると、こんなカフェでも珍しく見えるのだろうか。茅島さんも、記憶を失っている所為もあって、一緒に街を歩くと、なんでも物珍しそうに見ていた。
美雪はさっきから、服についた汚れを気にしていた。好みの服装だったのだろうか。私の目から見れば、いつも服とそれほど装いのグレードは変わらない。
「うーん、大丈夫かな」美雪はまだ残っているコーヒーを置きながら、神経質にそう呟いた。「だって、路地裏って汚いしゃん? あんなところに隠れるんじゃなかった」
「私は普段から結構通るけど……近道できるから」
「彩佳は相変わらずだよね……」
「食事は、必要経費で落ちるの?」
「うん、そうなるよ。私が払うから、任せといて。後で施設に請求するから」
美雪は服に汚れがないことを確認して、私達は忙しそうな店内を尻目に、例の暗号のことを考え始めた。こういった問題というのは、おおよそ一晩眠ってしまうと、かなりあっさりと解けてしまう場合がある。
まあ、そんな期待は、直ぐに打ち砕かれたのだけれど。
十五分ほど黙って考えたところで、美雪が音を上げた。
「やっぱり無理だね、これだけじゃなんとも言えないよ」
「あー、なにかヒントとか解読表があれば良いのか」
「多分そんな感じだよ。暗号と言ってもメッセージなんだから、閃きに依存するはずがないと思うんだよね。どっかに、読み解くための鍵があるんだよ、きっと」
「まあ、そうか」昨日からそれなりに頭を捻って考えた暗号に、そうやって突っぱねられると、一定の怨恨が自分の内に貯まるのを自覚した。「結局、何を示す暗号なんだろ。楽しいクイズじゃないでしょ、これ。前の区長が残したって言ってたけど……」
「ほんと、それだよ」美雪がコーヒーを飲んだ。ガムシロップを三つも入れていた。「何を示してるのかがわかれば、もう少しわかりやすくなると思わない? でも順吉さんはなんにも教えてくれないでしょ?」
「言いたくないのかな……」
だとすると、この暗号自体が私達の想像よりも、危険な代物だっていう可能性を、否定できなくなる。
下層の人間が、喧嘩をふっかけてきたことにもつながるような気がした。槇石のやっていることが、彼らにとって不都合だとすれば、時間を使ってその動きを見張るというのも、理解できる話だった。
ともすれば、茅島さんや精密女が請け負っている身辺警護ほどではないけれど、こっちだって十分に危険な仕事なのかもしれない。
「……茅島さん、大丈夫かな」
少し頭の中で彼女のことを考えただけで、口から茅島さんの名前が無意識に漏れ出た。
美雪は大きなため息を吐いて、呆れた。
「もう、また暗号のこと忘れて、変なこと考えてる」
「……ごめんって」
「彩佳の頭の中って、ふくみしかいないの?」
「…………いない」私は正直に答えた。目の前に、手を付けられていない水の入ったグラスを見ながら。「だって、他に友達がいないから……」
「私のことは?」美雪が、自分を指差して、小首をかしげながら訊いた。
「バイト先の……同僚?」
「あはは、ひどいな彩佳は」
別段怒る風でもなく、彼女は笑った。
確かに、彼女だって友人に数えたって罰は当たらないはずなのに、自分の中で友人という枠を特別視しすぎて、そこに特別な茅島さんだけを収めるスペースしかなくて、どうも美雪は頭の中でその友人像と結びつかなかった。
ごめん、と私は頭の中で誰にともなく謝った。
そのまま、外を出歩く気分にもなれず、客足も減ってきたというのもあって、私達はそのカフェに昼の時間まで居座った。こうして腰掛けてみると、意外にも居心地のいい椅子の所為もあった。その段階に至って、初めて私は、美雪がここに来たいという理由を理解した。これがこのカフェのセールスポイントとも言える、根本的な親近感だろう。
ポピュラーな解読表やヒントがネットに落ちていないかを探しながら、とにかく暗号のことを考え、飽きたらくだらない雑談で時間を潰した。美雪はクラブに出入りするのが趣味だと以前に言っていたので、音楽の話を私にして来た。私の方は、家にいても一秒だって音楽を聴かないから、答えられるのは相槌だけだった。私達の共通の話題は、漫画と、茅島ふくみのことくらいだった。
しばらくの時間が経った。暗号に対する成果は、特にはない。
「さて」
そう美雪が一息をついて、時計を見た。十三時。気がつけば、信じられないほどの時間を過ごしていた。九時過ぎにここへ訪れたのだから、四時間近くはここで暗号について考えていた計算になった。
「昼もここで食べてから、区役所にでも行こうよ。前区長のこと、いろいろと教えてもらいたいしね」
「そうね。ここから遠いの?」また歩くのか、と私は辟易しながら言う。
「ここからだと……二十分くらいかな」
話していると、私の端末が鳴った。
知らない番号だったが、その数字の羅列に見覚えはあった。けれど、思い出せない。美雪に尋ねると、「それ、槇石家だよ」と教えてくれた。登録でもしておけばよかったなと思いながら、
私は電話に出て、向こうから聞こえる異様な声色に、全身が逆立つような気分になった。
『……えっと、加賀谷彩佳さんですか』
「そ、そうですけど」
『岡芹です』
名前を聞いて、あの使用人の顔が思い浮かんだ。
『今、どちらにいます?』
「カフェですけど、どうしました?」
『…………落ち着いて聞いてください』
そう差し込まれて、落ち着いていられる人間を、私は知らなかった。
『順吉さんが――殺されました』
「え…………なん、ですって?」
周囲の雑音が、一気に消え失せていくような、感覚。
『順吉さんが、殺されたんです。すぐに、館に戻ってきて下さい。では』
一方的に、電話が切れた。
さっきのは、夢?
聞いた言葉すら、指の先から溢れてしまいそうだった。
岡芹は、なんて言った?
「電話、なんだって?」美雪が訊いた。どんな技術か、端末の電話音声は、その通話者にしか聞こえない。
私は言葉の意味を、未だ飲み込めずに、岡芹が口にしていた音声情報を、そのまま自分の口で繰り返した。
「じゅ、順吉さんが…………殺されたんだって」
言ってみても、それが現実的な響きを持つことはなかった。
美雪の血の気の失せた顔と、なんだかバカみたいに忙しそうなカフェの喧騒が、笑ってしまうくらいに合致していなかった。
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