ふくみ4 10日 22時

 下層の街は、彩佳の好きそうな飲食店と、彩佳の嫌いそうな人情で溢れていた。

 精密女が食事を取ろうというので、適当な店に入って、二人はホットドッグを食べた。理由はない。その店で、一番ポピュラーだっただけのことだった。出店のような様相をしていて、店先にいくつかのテラス席が設けられていたが、雨で誰も使っていないのが気の毒だった。

 二人は歩きながら食事を終えた。これが夕餉なのか朝食なのか、まるでわからなかった。

 繁華街の歩道には、ビルから突き出た屋根がある。その御蔭で傘がなくても雨に濡れることはなかったが、下層の人間が大抵ここを通るのでひどい混雑だった。腸詰めにされている気分だ、とふくみは感じた。倒れないように、そして置いていかれないように、ふくみは精密女の硬い手に捕まりながら歩いた。

 歩いているときに、ライブハウスを見つけた。多分、孟徳のバンドが出入りしている店だと思われた。確証はなかったが、他に同じような店はこの近くには見当たらなかった。ビルの合間に、地下へ降りる階段があって、その先のようだった。派手で大きなネオン看板が出ている。入る理由はなかった。

「人が多いですね」

 精密女が、気を使ったように口を開く。ふくみは今、ほとんど彼女の二の腕に捕まっている状態になっていた。こうやって並んでみると、嫌になるくらい身長差があった。どうしてこの女はここまで背丈があるのだろうか。

「上層の街は、どんな感じなのかしら」

 歩きながら、とにかく深く考える余裕もなく、それだけをふくみは口にした。

「美雪さんたちに任せていますが、気になるならあとで行ってみますか」

「……いや、良いわ、行かなくて。向こうに任せる。そのつもりで、上もチーム分けを二組にしたんだろうし」

 あはは、と精密女は何が面白いのか笑った。

「人口比で言えば……下層の方がかなり多かったと思いますがね。上層は、比較的上流階級というか、街の中枢に関与している重役が、優先的に住まわせてもらってるみたいですね」

「それって、こっちに貧困層が押し込められてるってこと?」

「悪い言い方をすれば、そうです」

 一通り歩き回って、人の集まる繁華街、そこにあるライブハウス、駅、エスカレーター、そして館の位置関係は把握した。襲撃犯を捕らえ損なっても、逃走経路は割り出せるだろう。雑多な街だが、絶望的なほど広いわけではない。

 日用品ショップで買いたいものがある、と精密女が言うので、ふくみはそれに付き合った。欲しい物のないふくみは、彼女の後ろを適当について回った。精密女が酒類を買っているのを見たが、咎めるつもりもなかった。

 館に戻った。客室の椅子に腰掛けた二人は、仕事の話をした。豊人をどうやって警護するのか、襲撃犯をどうやって捕まえるのか。話し合ってから五分ほどで結論は出た。ふくみが耳を使って豊人を監視し、何かあれば精密女を叩き起こしてでも部屋へ向かわせる。それしかなかった。

「問題は、犯人がいつ襲撃に来るか、ですよね」精密女は買ってきた酒を取り出しながら話す。「それと、いつまで警護を続けるのか、です」

 そう言って、彼女は缶ビールを差し出す。けれど、ふくみは受け取らなかった。

「……飲むような気分じゃないわ。今日何かあったら、どうすんのよ」

「お酒嫌いですっけ」

「知ってるくせに……彩佳の家ではなんとか飲んでたけど、基本的に好きじゃないわ」

「あら、そうですか」彼女は缶ビールを開封して口をつけた。「私達素人じゃ、一週間程度の警護が限界でしょうね。まず昼夜逆転生活による体調の影響、そしていつ襲撃が来るのかという緊張状態。あなただって、もう身体が怠くなっているでしょう」

「あんたはなんで平気なのよ」

 頬杖をついて、精密女を睨んだが、彼女は微笑むだけだった。

「……とにかく」ふくみは言う。「言い訳をするわけじゃないけど、この家に侵入経路はないわ。あれだけ厳重な上にこの奇妙なルールよ。外出禁止時間に館にいる間は、基本的には安全じゃないの?」

「あなたにしては非常に楽観的だと思いますが、実は私もそう思います」精密女は頷く。「窓もなく、玄関も二重になっています。さらに長い中庭、門。高い塀。昼の間には、法律厳守のための防犯センサーまで用意してあるみたいですから、館の中は安全でしょう。それは、豊人さんも言っていました」

「じゃあ、なんでボディガードなんてさせるのよ」

「それは矢畑さんが言っていました。三日後に控えているんですよ、外出予定が」

 その単語を聞いて、眉をひそめてからふくみは、姿勢を正した。

「誰と?」

「槇石家の当主と区長です。この両者は支援関係にありまして、槇石が資金援助をし、現区長がその地位を得ました。豊人さんは、なにか言いたいことがあると言って、そのブッキングを取り付けました。先月くらいから、決まっていたみたいですよ」

「公になってる話なの?」

「区役所には伝わっていますが、あまり他言はするなとも付け加えてあるようでした。豊人さんがお願いしたんですよ。上層じゃ、彼は敵が多いですから。だからといって、それで区役所の職員の口を完全に封殺出来るとは思わないほうが良いですが」

「じゃあ犯人はそこを狙うつもりってわけね」

「一番可能性があるのは、そこでしょうね……だから、少なくとも豊人さんのそばを離れるわけにはいきませんが、館にいる間は、常に気を張っているほどの必要はないみたいですね」精密女がビールを一気に飲み干す。「それに豊人さんも、優秀なボディガードを派遣してくれる会社を現在探している途中みたいで、私達がここにいるのは、その繋ぎなんでしょう。見つからなければ、この館からの引っ越しも考えているそうで。その間で一番危ないのが、三日後の会合、というわけですね」

 気にしていたわけではない。そういうわけではないのに、安心してもいいと言われた途端に眠気が増してきた。下層の住民にとって、この時間なんてまだ昼間に過ぎないというのに。

 ふくみはベッドに寝転がる。

「……仮眠」

「あなた、施設でもずっと寝てましたよね」

「寝付きが悪いの、最近。歳かしら」

「私は不眠に悩んだことはありませんが……」精密女は、バカにしているのかと思うくらい真面目な顔をしてそう答える。「ふくみさん、下層は、嫌いですか?」

「ごちゃごちゃしてて、苦手」

 精密女は端末を起動させて、誰かとメールのやり取りをしていた。きっと美雪だ。彼女から上層とフリーフォール館のことを逐一聞いていたのだろう。そうでなければ、精密女は上層について詳しすぎる。

 彩佳は、まだ起きているのか。

 美雪と、仲良くやれているのだろうか。

 きっと、自分なんかより、美雪のほうが話だって合うのに、彩佳は無理に自分に固執しているみたいだった。その理由も、彼女は忘れてしまっていた。彼女には、ここ数ヶ月以前の記憶がまるでなかった。

 彩佳。

 彼女にどう謝れば良いのかは、ふくみにだってわかっていなかった。

 それはどちらが正しい間違っていると言うよりも、ふくみには彼女の気持ちが、よくわかっていないからに他ならない。



 ふくみが眠っている間に、いつの間にか、孟徳と一緒に家を出たらしいすずめが戻ってきていた。時刻を見ると、夜中の一時にもなっていた。仮眠と呼ぶには、長すぎる時間が経っていた。

「風呂ならいつでも入っていいわよ」

 ふくみ達の客間を、首だけ入れて覗いたすずめが、そう言った。いつの間にか、精密女はいなくなっていた。豊人の部屋の近くにでもいるのだろうか、と予想をつけた。

 すずめはまだ入らないらしい。今日は仕事も終わりでそのまま帰ってきた、と彼女は答えた。これから部屋で時間を潰し、二時ぐらいから友人と遊ぶのだという。

「こんな時間から?」

 ふくみが尋ねる。それについて、すずめが明瞭に説明する。

「ああ、まあ、変か。下層の人は、普通に朝起きてる人たちから、十二時間ずれて生活してるって考えたら納得できるわよ」

「十二時間って……」ふくみはベッドから半身を起こして考えた。「じゃあ今は昼の一時みたいなもの、ですか」

「そうそう。あなた達外の人は、もう寝るような時間だろうけど、私達にとってまだ昼間ってこと。お風呂はまだ良い。外出禁止時間に入ればいいのよ。私はこれから、遊ぶ時間なの」

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「護衛なんてバカな依頼を受けてもらって、申し訳ないわね」すずめがバツが悪そうな顔を浮かべる。「なにかあるなら、何でも言って」

「ありがとうございます……」

 ふくみはふらふらとした足取りで、風呂場に向かった。リビングの奥にあるという話は、案内のときに既に矢畑から聞いていた。

 その途中で、豊人の部屋の前で、椅子に座っている精密女を見かけた。彼女に風呂に入ることを告げると、「私は後で入りますから、先にどうぞ」と促した。言われなくてもそうするつもりだった。彼女が入浴している間は、せめて自分が豊人の護衛に当たろうと思う。

 巨大な風呂場で、彼女は自分の華奢な身体と妙に長い髪を洗った。身体はともかく、髪のせいで常人よりも洗髪に時間がかかったが、それでも別に良かった。きっとこのくらいの長さにしているのには、なにか以前の自分がその意図を持っていたからに他ならなかった。

 ともすれば、彩佳が綺麗だとでも褒めてくれたのか。

 頭からシャワーをかぶって出る。

 乾かして、リビングに出るとさっきまではいなかった孟徳がそこにはいた。ソファに座って、テレビを睨みながら、なにかプラスチックで出来た物体を指で操作していた。ふくみは一瞬それが何なのかを理解できなかったが、何かで読んだ知識を思い出すと、それがテレビゲームであることを、なんとなく察した。

「あ、茅島さん」

 孟徳はふくみに気づいて声をかけた。首はテレビの方に、貼り付けたように固定させたままだった。声はどこか疲れているように掠れていた。どうもライブが終わって、自分の時間を過ごしているらしい。すずめから聞いた十二時間の話を照らし合わせると、わりに早朝にライブをしているのだろうか。下層の人間のスケジュールは、多分一生かかっても理解できないだろう。

「なにしてんの?」ふくみはもうわかりきったことを尋ねる。

「ゲームですよ、ゲーム」孟徳はコントローラーを手から離さないで、力みながら答えた。なんのゲームをしているのかは、ふくみにはわからなかった。「趣味です。ストレス解消に、ライブの次に良いんです」

「へえ……」生返事をするふくみ。「よくやるの?」

「ライブが終わって……作曲も作詞もしてない時は、だいたいやってますね。矢畑さんがね、ゲームが好きで教えてくれたんですけど、俺もハマっちゃいましてねえ」

「矢畑さんが?」

 ふくみは彼の顔を思い返す。その風貌から言うと、ゲーム好きだということが、意外というわけでもない。

「仲がいいんですよ、矢畑さんと。すずめは、使用人としてしか見てないんですけど、俺は友人だと思いますよ。あの人も音楽に詳しくてね。俺もバンド活動のことを教えたりするんですよ。注目の新人バンドなんかは、ライブハウスに出入りしている俺の耳によく入ってくるわけですからね」

「ふうん……」

 音楽。

 ふくみも彩佳も、音楽に没頭するという趣味は持ち合わせていなかった。彩佳はどうしてなのかは知らないが、ふくみは耳が良いからこそ、その変な騒音を聞くと、なんだか目が回ってしまうような感覚に陥るのが理由だった。

 美雪こそよくクラブに出入りしていると言うが、彼女の普段聴いている音楽に対して、ふくみが何か良い印象を抱いたことはなかった。うるさいし、平衡感覚を見失うし、特に必要のない感情を押し付けられる気がした。

「音楽でも聴ければ、気でも紛れるのかしら」

「貸しましょうか? 俺らのバンドのアルバム」

「……いいわよ。うるさいから、音楽って嫌いなの」

「何言ってるんですか」孟徳はようやくコントローラーを置いて、ふくみに向き合った。その顔は、何処か楽しそうだった。「音楽は、最高の娯楽! 最高の逃避! これからその甘美さを理解できる茅島さんには、羨ましさすら感じますよ」

「なによそれ……」ふくみは、暑苦しい孟徳に呆れて背中を向ける。「ごめん、興味ないのよ」

「いえ、いつか教えてあげますよ。音楽の良さってやつをね」

「あんたのその純粋さ、嫌いな人も好きな人もいるんでしょうね」



 その後は護衛と仮眠を繰り返しているうちに、外出禁止時間が迫ってきていた。

 どれだけ昼間に寝ようが、この時間に起きているのは気分が悪い。恒久的な吐き気に、ふくみは見舞われていた。普段、変わった任務があろうが、こんな時間に起きていることは稀だった。豊人の部屋の前で、ぼーっと頬杖をついて気怠さを飲み込んでいた。

 客室から精密女が出てくる。

「そろそろ外出禁止時刻です」そう告げる彼女が、天使のようにも見えたなんてこと、ふくみは本人には口が裂けても言うつもりはなかった。「館の警報装置も作動します。外部からの侵入は、まず不可能でしょう。私達も客室に戻って休みましょうか」

「うん……そうする」

 ふくみはベッドに潜る。

「私は、もうしばらく起きています。この時間が本当に安全なのかも調べたほうが良いでしょうから」

 寝転がるふくみを見ながら、精密女が言う。もともと、あまり眠っている様子を見たこともない女だったから、意外にも見えないが心配だった。

「……私、いなくて大丈夫?」ふくみが眠気の中、それだけを口にする。

「まあ、どうせ何かあったところで、あなたに戦闘行為は向いていませんから、安心して寝てください。あなたは、強力な聴覚機能とそれなりの度胸があるだけで、ただの一般人ですから」

「……うん」

 ほどなくして、眠りに落ちたふくみだったが、しばらくして目が覚めた。

 何かが聞こえる。

 地鳴りのような、重い何かを引きずるような、聞いたこともない類の音波が耳に触れていた。

 ――なんだ?

 地震だろうか。

 幻聴だろうか。

 あとで、精密女にでも尋ねるか。

 そうしてふくみは、彩佳のことでも考えながら、今日だけで言うと何度目かの睡眠を取る。

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