ふくみ3

 矢畑はふくみたちを二階に案内した。さっき荷物を置くのに登ったところだったが、具体的に何があるのかは聞いていなかった。矢畑の説明は明瞭で、突き当たりが当主の部屋、その他が私室だから入るな。それだけだった。わかりやすくて良かった。

 当主の部屋の前で、矢畑は説明する。

「お目通しする前に、まずは館を案内するように言われていたんですよ。ボディガードですから、館の構造は頭に入れておいてもらったほうが良いって、当主の豊人さんが」

 情報を押し込められたって、覚えきれるものでもないんだけどな、とふくみは愚痴を漏らしそうになった。いざとなれば、耳の機能を動員すれば、大雑把に館の構造くらいは把握できる自信はあった。

 部屋をくぐり抜ける。

 そこは書斎だった。巨大なコンピューターとサーバーが陳列してある。ファイル棚にはびっしりと、隙間なく物が詰め込まれていた。仕事以外に、この部屋の用途は考えられなかった。部屋の隅に置かれたベッドのほうが、むしろこの硬質な部屋では異質だった。他に人間の生活というものを感じさせる家具は、このベッド以外に存在しなかった。

「豊人さん」矢畑が呼びかける。「お客人です。ボディーガードの。館の案内は、すでに済ませました」

 そうか、とコンピューターの後ろから、きりきりと鼠を絞め殺すような音が聞こえたかと思うと、現れたのは車椅子に乗った初老の男だった。

 彼が、馬郡豊人だ、ということは、見るだけで理解できた。その身体や生活状況については、精密女も初めて知ったらしく納得したような表情を浮かべていた。

「すまんな」豊人が、コンピューターの置かれた机の前面に姿を現せた。入り口に立っているふくみたちに、その全身を見せつけるような格好だった。「挨拶もしないで、矢畑に案内を任せてしまってな」

 その年齢は、見たところ六十代と言ったところだろう。声の発声からして、筋肉は衰えてはいるが、別段不健康というわけでもないらしかった。男性にしては髪が長く、そこには白髪が交じってもいた。

 ふくみ達の形式的な挨拶と自己紹介を、満足そうに眺めたあとに、豊人は続けた。

「私はこの部屋からはもう殆ど出なくてね。トイレに行くときに、矢畑を呼びつけるくらいだ。仕事なら、ここでも出来るから問題はないんだよ」

 聞いて、精密女が手を上げて口を挟んだ。

「ボディガード、とお聞きしました。なんでも、殺人予告があったとか」

「その通りなんだ。数日前に怪文書が届いてね。実物は……そっちの棚だったか。矢畑、見せてやりなさい」

 言われた通りに、矢畑は後ろに並んでいる棚の、指定された部分を探った。十秒もしないうちに、矢畑は一枚の紙切れを手に、ふくみ達のもとに戻った。

 精密女が、機械の両腕を使って、紙をつまみ上げた。破れてしまうんじゃないかと思って、ふくみは身構えてしまったが、ピッと広げられた紙切れに書かれた文字を、精密女は不思議そうに読み上げた。

「『殺す』……とだけ、ここには書かれていますね」彼女は、紙をひらひらとひっくり返したりした。「差出人も何も書かれていないんです?」

 豊人が、厳かに頷いた。

「それだけ書かれた紙が、うちのポストに投函されていた。律儀にも消印があって、下層の郵便局から配達されたものだ。郵便のシステムは、上層とは基本的に分けられている」

「つまり、犯人は下層の人?」

「わからんが、上層の人間が下層にいれば目立つ。目撃証言も出てくるだろう。となると、下層に潜んでいる、何者かだろうかな……」豊人は頭をかいた。「紙なんてアナログな方法、久しぶりに見たと思ったよ。警察にも届け出たが、指紋なども検出されないとして、それ以上捜査は進んでない」

 ふくみさん、どう思います? と精密女はふくみに紙を手渡した。彼女は慎重に眺めてみたが、何もわからないまま終わった。せめてこれが音声データなら、彼女の得意分野だっただろう。声の反響から、録音された部屋の間取りくらいは割り出せる。

 豊人は、そして頭を下げた。髪の毛が、すだれみたいに頭の周りに垂れ下がった。

「頼む。これを書いた犯人を見つけてくれ。私を……救ってくれ」

 ふくみは、紙から視線を外して、豊人に訪ねた。

「なにか、差出人に心当たりは?」

「わからん……いや、いないという意味じゃない。心当たりが多すぎて、なんとも言えないんだ」

「全てリストアップすることは出来ますか?」

「……時間はかかるが、やってみよう。それでも良ければ」

「構いません」

「明日までには済ませよう。今日は、疲れているだろうから、ゆっくり休んでくれ。何か……私に身の危険があれば、直ぐに知らせる。矢畑も近くに立たせておく」

「……はい、わかりました」

 そのまま、ふくみ達は踵を返して部屋を出ようとする。今日はもう、さっさと寝てしまおう。昼夜逆転生活を、いきなり身体に覚えさせるのは無理がある。危険があれば、耳でなんとか察知すればいい。問題はない。

 仕事用の社会性を投げ捨てようとしたその背中に、豊人が言う。

「……頼むよ、君たちだけが頼りなんだ」

「……はあ、がんばります」

「失礼ですが」精密女が口を挟んだ。「あなたほどの人なら、警察にもっと頼めば身辺警護くらいはしてもらえると思いますけど、どうして私達に?」

「さっきも言ったが、あいつらは何かあってからじゃないと動かん。馬郡家は、資産家ではある。あるのだが、警察は、上層を仕切る槇石の犬だ。現在の区長を抱き込んでいる槇石と対立している我々なんかに、警察が簡単に介入なんてするはずがないんだよ。殺されればいいとすら、奴らは感じてるはずだ」

「……なるほど」精密女は、頷く。「理解はしました」

「それにな、あんたらの施設にコネクションがあった。会社運営の賜物だ。悪い言い方だが、利用させてもらったんだよ。悪く思わないでくれ」

「いえ、仕事とあらば全力で当たりますよ。ね、ふくみさん?」

 適当な返事すら思い浮かばなかった。

 ふくみは黙ったまま部屋を出た。



 何をしたわけでもないのに、ふくみは疲れていた。客室に戻ったあとはそのまま眠ってしまうつもりでもあったのだが、風呂にも入らなければならないし、今日したことと言えば、起きて、出発前に準備をして、仮眠をとって、移動をして、現在に至る。それだけだった。悲しくなるくらいに、何もしていない。

 それに、この時間と言えども、この下層の住人にとっては昼間のようなものだった。階下が騒がしい。もしかすれば、彼らにとって朝食なのかもしれない。

 豊人の部屋から戻ってきた精密女が「これから下層を散歩に行くんですが、一緒にどうですか」と誘うので、ふくみは断る理由もなくベッドから起き上がった。というよりも、精密女は断られるなんて微塵も思っていないようだった。

 準備を終えた二人は客室を出て、玄関に向かう。その途中で、リビングから出てきた孟徳に呼び止められる。

「お、お二人さん、何処に行くんです?」

 たったそれだけの語だったが、廊下に響くほど大きな声量だった。ふくみの耳はそのことを、最初の挨拶のときから察知してはいたが、覚えてはいなかった。

 孟徳はひとつひとつの動作も大げさで、多分探偵という職業が最も向いていないタイプの人間なんだろうな、とふくみは彼を眺めながら、そんな無駄なことを考えた。

「散歩です」精密女が簡潔に答えた。「犯人の襲撃がある前に、この街の地理を把握しておこうかと思いましてね。豊人さんなら、矢畑さんが目を離さないで見張っておくと言っていますし、まあ今のうちに、です」

「へえ、そうなんですか」何も理解していなさそうな顔を浮かべて、孟徳は頷いた。「俺はこれからライブなんですよ、見に来ませんか?」

「ライブ? 歌手なんですか?」

「はい、バンドをやってるんですよ、バンド。結構人気あるんですよ。知り合いのライブハウスで、毎日ライブをしてくれって言われていて……」

 ああ、だから声が大きく動きも派手なんだろうな、とふくみは納得する。

「せっかくですけど遠慮しておきます」精密女は、首を振った。「また機会があれば。そもそも殺人予告が出ていますから」

「それもそうですね」孟徳は、文句も言わずに納得する。「今のうちに出かけるのが賢いですよ。必要なものがあるなら、買ってきた方が良いです。朝になったら、この家に閉じ込められるわけですからね。窓もないから外の空気だって吸えないんですよ」

「ええ、お気遣いありがとうございます」

 精密女が歩き始める。ふくみもそれに従う。

 孟徳とすれ違う際に、彼がふくみを見てなにか話したそうな顔をしているのに気づいたが、面倒くさそうという理由で、彼女が彼に声をかけることはなかった。

 あの日から、心が狭くなっているのを感じる。

 日を追うごとに、嫌な人間に近づいている気がした。

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