ふくみ2 10日 21時
美楽華区下層にたどり着いたのは夜だった。
頻繁というほどでもなく利用する地下鉄の、長い階段をつらつらと駆け上がると、見えてくるのは巨大なエスカレーターだった。
ふくみは精密女に荷物を持たせて、その人間の作った機械を、しばしの間じっと眺めていた。雨が滴っていて、なんだかかわいそうにも見えた。人が乗ろうが乗るまいが、このエスカレーターはずっと休むこともなく駆動しているのだろう。そんな事を考えてセンチメンタルになってしまうほど、ここ最近のふくみの頭は健全でもなかった。
彩佳は、上層に無事にたどり着いただろうか。あの娘は、どこかコミュニケーション不全な部分がある。美雪が一緒にいるとは言え、知らない館に泊まり込みで仕事をさせるのは、少し酷なんじゃないだろうか。
……かまうもんか。ふくみはすぐに首を振って、そんな心配を捨てた。嫌味の一つなんて言いたくもないのに、喧嘩をしている相手のことを、無意識にけなしてしまうのは、人間に備わった都合のいい防衛本能なのだろうか。
下層の街。綺麗でもなんでもない。雑多で、気味が悪いとも言えた。ところどころ点いている明かりが、歩道を照らしているだけだった。車通りも薄い。上層は、こんな場所ではないらしいと、精密女は教えてくれた。彩佳には、上層のほうが良いとふくみも思っていた。
薄汚い、古臭くて高いビルが乱立している。中ではカフェや居酒屋、単なる食事処が営業をしていた。イリーガルな情報屋や、風俗店だって、探せば必ず見つかるだろう。そんな店ばかりだ。駅前だからだろうか。雨だと言うのに、傘も差さないでふらふらと歩いている酔っぱらいの姿が、妙に目立っていた。路地裏からは、尿のような匂いすら漂ってきそうだった。
見上げると、上層が見える。かすかに見えるビルの窓の明かりだけでもわかったが、綺麗で、測ったように整列していた。下層とはこうも違うのか。エスカレーターを隔てて分断されているという事実から、この街の政治状況が伺えた。
「この下層、昼間も暗いらしいですよ」
そのあたりで何かを買っていた精密女が、ふくみに話しかける。彼女は疲れも知らない機械の腕で、ふくみと自分のスーツケースを引きずり、肩からは細長いギターのケースのようなものを担いでいた。その中身を、ふくみは知っているが、口には出さないようにしていた。
「それは、どうして?」
「上層のビルが、太陽の光を遮るんですよ。だから下層の住民は、大体が夜に活動的になります。昼間はもっと死んだような街になりますよ。今は雨ですから、そうは見えないかも知れませんが」
ふくみは傘に精密女の頭を入れた。大きめの傘で、風が吹いてくれば飛ばされる心配すらあったが、荷物をもたせている手前、そうやって気を使う素振りくらいは見せておかないと、後で何を言われるのかわからなかった。
歩く。目的地は、さほど遠くない。
黙っていたいふくみに対して、精密女はそれをわかっているような表情をしながら、言う。
「濡れてますよ、肩」
じっとりと、汗をかいたような湿気を、肩先に感じる。この女を濡らさないようにするあまり、ふくみは自分のことを勘定に入れていなかった。どうでも良かった。濡れようと濡れまいと、死ぬわけでもなかった。
「目的地は?」
精密女の指摘を無視して、ふくみは尋ねた。わかりきっていたのに、なぜだかそう尋ねてみたくなった。
「エスカレーター付近の館です。レディファンタジー館というらしいですね」
そこには、下層を取り仕切るほどの力を持った、富裕層の老人とその家族が住んでいるという。
二十一時半。施設で十分な仮眠をとって来たというのに、この時間になれば、身体は否応なしに眠気を孕んでくる。
レディファンタジー館は、言い聞かされていた通りの外観をしていた。
丸い。とにかく丸かった。角張った箇所が一つもない。あまりにも美しく曲線を描いているので、手でキャンパスを作って、観察してみたくもなった。
インターフォンを鳴らして、精密女が何かを話すと同時に開かれた門をくぐり抜けて、厳かな中庭を抜けた。いくつもの植物が飼いならされている様子を眺めながら、しばらく歩いて玄関にたどり着くと、前で立っていた使用人に出迎えられた。
「ようこそ」
男だった。目立ちもしないが、使用人と言うにはどうなんだという格好をしていた。
「話は聞いています。ボディガードのお二人ですね?」
「ええ」ふくみは頷く。自分にそんな役目が務まるとは、微塵も思っていないのに。「あなたは?」
「ああ、私は矢畑。見ての通りの使用人ですね」態度を柔らかくして、矢畑は言う。
「私は、茅島ふくみです」ふくみは形式的に挨拶をする。「こっちは……鈴木典子です」
精密女では一般人の通りが悪いと言うので、さっき電車の中で考えた偽名を伝えた。精密女は気に入っていないようだが、文句を口にしなかった。
「茅島さんと、鈴木さん、ね。どうぞ、上がってください」
使用人と言う割には、面倒くさそうな口調を隠さないで、矢畑はふくみ達を中へ招き入れた。
玄関には大きな機械(発電機だという)が置いてあり、扉を抜けると長い廊下が伸びていた。カーペットの品も良く、金を持っているという嫌味を感じるようだった。矢畑が説明するには、左右の扉はリビングと食堂に通じているのだという。突き当たりの階段を登った先が、館の主の部屋、そしてふくみたちが泊まる客室がある。
廊下を歩いている途中に、鈴木もとい精密女が尋ねる。
「フリーフォール館とは、どういう関係なんです? 噂で聞いたところ、間取りがまったく同じらしいんですけど」
精密女の口にしたその館は、彩佳たちが泊まっている館だった。
「よくご存知ですね」矢畑が、どこか嫌そうな顔をする。「あそことは、同じ建築家によって設計されたので、作りがほとんど同じらしいんですよね。まあ……行ったことはないから、どれだけ似てるのかは知らないんですけど」
「ああ」精密女は、行儀も悪く無骨な指を鳴らす。変な音がした。「不仲ですか」
「そうなんですよね」矢畑は頷いた。理解者を見つけたときの顔だった。「だから同じ造りだと言われているんですけど、関わることはないんですよね。うちの馬郡家とフリーフォールの槇石家は、地獄みたいに仲が悪いですから」
「依頼を受けたときに、フリーフォール館のことも調べておいたんですよね」
矢畑が階段を上る。ふくみも流石に精密女に悪いと思って、スーツケースを自分で持つと申し出たが、精密女が首を振った。復讐の相手が死んでいたときみたいに、感情の振り下ろしどころを奪われたような気分に、ふくみはなった。
「そうそう」矢畑が客室の鍵を開けながら、口にする。「この館にはルールがあるんですよ。厳格なルールが」
彼は振り返って、ふくみと精密女を眺めた。精密女の方も、そのルールに関しては熟知していないのか、首を傾げそうな勢いだった。
「この館の人間は、昼間に出歩いてはいけません。守ってくださいね」
「昼間って」ふくみが尋ねる。「具体的には何時ですか?」
「えっと……確か、朝七時から十九時までの十二時間ですね。めんどくさいでしょ? これね、フリーフォールの槇石が一方的に決めつけたルールなんですよ。あいつらロクなことしないんだから、ほんと」
「破ったら、どうなるんです?」
「ダメダメダメ。お二人は、中央コンピューターはご存知ですよね? あそこに法律がインプットしてあって、破ると罰則があるんですよ。豚箱行きです。だから、破ったらどうなるとか、考えないで下さい」
「……わかりました」
そうやって、ふくみがおとなしく頷いたというのに、精密女は煮え切らない表情を浮かべながら、喧嘩を売るように訊いた。
「門限が依頼に支障をきたす場合はどうするんです?」
「それでも駄目です。融通は利きません。支障をきたしても、それでもなんとか守ってください。ですから、外出時もギリギリに館に戻るようなことは、絶対にしちゃダメですよ。余裕を持って下さい」
解錠された客間に、ふくみたちは荷物を置いた。矢畑は、とりあえずこの館の勝手を教えるために案内すると言った。トイレや風呂の場所くらいは知っていないと、ふくみとしても困るとは思っていたが、精密女はめんどくさそうな態度を崩さなかった。
館は外見で見るほど広いわけでもなく、窓がない分窮屈にすら感じた。広々としていて物が少ないリビングは散らかっていたし、食堂も形ばかりであまり使われていないようだった。矢畑が言うには、住人はだいたいのことを部屋で済ませる、のだという。
倉庫には長テーブルや古いソファや壊れたステレオ、ビニールシート、梯子などが押し込められていた。天井が異常に高い倉庫で、見る限りは、二階からも扉が繋がっているようだった。
倉庫を後にして、廊下へ戻ったところで、二人組の男女に声をかけられた。両方とも、比較的若く見えたが、実年齢は推し量れなかった。
「あ、例のボディガード?」と男のほうが言った。責任感なんて、少しも覚えたことのないような、砕けた口調だった。「親父も大げさだよな。殺人予告なんて、悪戯だろうよ。まあ、あんたら気をつけて頑張ってくださいよ」
彼に対して、ふくみ達は名乗った。精密女が自分から鈴木、という名前を使ったのが、見ていて少しだけ面白かった。
男は自分を、馬郡孟徳と言った。笑顔で、握手を求めてくるような当たりの良さが、逆に胡散臭かった。
女の方は気だるい態度を取りながら、馬郡すずめ、と自己紹介をした。人見知りなのかはわからなかったが、ふくみたちから、警戒するように少しだけ距離を離して立っていた。
彼らは、この家の住人で、馬郡家当主の子供だと言った。つまりは、依頼人の子息だった。
精密女が、訊く。
「他に住んでいる人は?」
「いないですよ」
孟徳がぐるりと首を振った。精密女よりもこの男は年下に見えるが、その妙な馴れ馴れしさが、嫌いな味のキャンディみたいに気になってくる。彼は外観も異質で、赤にも見える色に染めた髪の毛で、額の方向にポンパドールを作っていた。服装も、じゃらじゃらと金属片を布地に貼り付けていて、動くたびにふくみの耳を逆撫でするような音がした。
「住んでるのは、俺たち三人家族と、矢畑さんだけですよ」
孟徳はそう言って、畑に目配せをした。矢畑は嫌な顔ひとつせずに頷いた。
暇そうに壁にもたれかかって、話を聞きながら腕を組んでいた、すずめが口を利いた。
「ねえ。おふたりは、父さんに会うの?」
長い髪はところどころ軽く湾曲しており、派手なワンピース状の衣類が、その全体に奇妙な印象を与えていた。アンニュイな表情が、その統一感をさらに乱しているような気がした。
「やめとけばいいよ。父さん、まともな人間じゃないから」
娘の口から、そんな言葉が出てくるとは思っていなかったふくみは、憎しみや、妬みや、悲しみが内包されたような彼女の言動に、少々面を食らってしまった。
聞いてから「はあ?」と孟徳が暑苦しい声を上げた。
「おいおいおい、あの人は……ちょっと極端なところがあるだけさ。いい人には違いないぜ?」
「ああ、このバカ孟徳の言うことは信じないで」すずめがふくみに向かって、何処と無く微笑みながら言った。「こいつ、気持ちのいいくらいのバカだから。父さんは、悪よ。私が保証する」
「おっと、すずめ」孟徳が振り返って両手を広げた。「俺はバカでも良い。だが、父さんのことは悪く言うなよ? お二人さん、こんなすずめの言うことこそ、信じないでくださいね」
そうやって悪態をつきながら、滲み出る仲の良さを隠しきれない二人を見ながら、ふくみは何故か檻の中の動物を思い出した。
そう、見世物として割り切る分には、悪いものではなかった。
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