1章 日の出が再び朝を祈ろうが
彩佳1
あの日から一週間しか経っていないことを、カレンダーを眺めるたびに思い出していた。
私はずっと、部屋にいてくだらない惰眠と、ただ時間をつぶすだけの読書やインターネットサーフィンを行って、虚しい気持ちを誤魔化しきれないまま、また死を願うように眠りにつく、言うなれば雑菌と同じような生活を送っていた。
茅島さんとは、まだ連絡すら取っていない。耐えきれなくなって、こっちから謝るべきかとも感じた。私が悪いんじゃないかとも、考えることもあった。それでも行動に移そうとすると、凄まじい吐き気が私を襲って、何もできなくなった。
私と彼女の関係は、複雑だった。
彼女は私の大学で出来た唯一の友人で、なおかつ現在の彼女はその時期の記憶を失っていた。紆余曲折があって、再び友人同士という間柄に復元はされたけれど、私は、私の前から消えた昔の彼女のことをずっと想っていた。
だから、また再び茅島ふくみがいなくなることに、今度こそ私の身体が耐えきれるとは思えなかった。喧嘩をしただけでこうなのだから、彼女が死んでしまったらどうなってしまうのかなんて、想像に容易いだろう。
幸いなのか、私は大学を休学していた。本当に、特に何もすることがない。施設から流されるアルバイトも、単価こそ良かったがそれ故にそう頻繁にあるわけではなかった。
今日もくだらない一日を浪費しようと考えているときだった。携帯端末にメールが入った。私は目の前に、画面を立ち上げた。指輪型で、起動ボタンを押すと、私の目の前の何もない空間にウィンドウが開く。未来的だという理由で、巷では流行っているタイプの端末だが、液晶モニタに比べると画質は大幅に悪かった。
『アルバイトの打ち合わせで今から向かいます』とそれだけ書かれた文面だった。差出人は、精密女。茅島ふくみの同僚で、本名のわからない謎の女だった。あの日……私と茅島さんが仲違いをした瞬間にも、もちろんその場にいた。
今から来るというのだから、なにか急ぎの仕事だろうか。どうでもいい。断る理由も思いつかず、返事をするほどの元気もなかった私は、そのままメールを閉じた。
放っておいてほしい。
心からそう願っていた。
にもかかわらず、精密女が訪れたのはそれから一時間後のことだった。インターフォンが鳴ったときに、私は彼女が本当にここへ来るとは思っていなかったので、驚きと辛酸を舐めるような気持ちを覚えた。
舌打ちを漏らしながら向かって、ドアを開けると、精密女はそこでニコニコと笑って私に手を振った。その隣には、彼女といつも組まされている八頭司美雪が、どこか申し訳無さそうに立っていた。
廊下の方まで首を伸ばして確認したが、茅島ふくみはいないらしい。
開かれた扉から入り込んで来る十二月の冷気が私の全身と、右手の傷を殴った。
「やあ、彩佳さん。こんにちは」
精密女が、胡散臭いほど爽やかな挨拶をした。
彼女はかなり背が高くて、どこか信用しきれないようなタイプの顔つきをしていて、髪型もその都度結び方が変わる、掴みどころのない女だった。今日は長い髪を、無造作に三編みにしていた。似合っているのかいないのかもわからず、彼女の年齢すら私は未だに読み取れなかった。
彼女は両腕が機械に換装されており、それが人工皮膜で覆われることなく剥き出しになっている。つまり、歩いているだけで馬鹿みたいに目立っていた。この腕は筋肉ではなく彼女の脳波によって制御されており、破滅的なスピードとパワーが内包されていると本人は語っており、実際にその狂ったような腕力で、都合の悪い問題を解決したり、武力交渉に用いたりするのだけれど、私は怖いので、あまり彼女には近寄らないようにしていた。
私は、彼女たちを自分の部屋に上げた。学生が住むようなワンルームマンションに、三人もの人間が押し込められると、普段は感じないほどの窮屈さを、露出狂に無理やり見せつけられた秘部みたいに意識してしまった。
精密女と美雪は、炬燵に足も入れないで丁寧にクッションの上に、足を畳んで座った。そして、差し入れと称して買ってきたジュースやスナック菓子を、袋に入れたまま私に押し付けた。
精密女は正面に座った私を眺めて、社交辞令的に口を開いた。
「どうですか、調子は」
答えたくなかったが、私はとにかく首を振った。
「痩せましたか?」
「……わかりません」
「右手の怪我は? 撃たれたのでしょう?」
「大したことはなかったんです。ちょっと……弾が掠って、血が出ただけで」
私は右手を見る。未だに包帯が巻かれているが、出血部分はすでにかさぶたになっていて、殆ど治っていると言っても良かったのに、私はこの包帯を外そうという気分には、どうしてもなれなかった。
精密女の隣に座っている美雪が、私に尋ねる。
「あのあと勝手に帰っちゃうからさ、びっくりしたんだよ。まだ痛む?」
「いや、もう痛いわけじゃないけど……」
美雪は、心配そうに私を見つめた。
頭を金髪に染めている、きっと私よりも年下の女だった。身体つきは大人びていたが、顔がまだ幼い。もしかすれば未成年なのかもしれないが、酒を飲んでいるところを見たことはあった。今は金髪を、適当に結んでポニーテールにしていた。彼女も気分屋なのか、会うたびに髪型が違っていた。
彼女の機能は目だった。物の長さや物理軌道を測定できるらしいが、使っているところはあまり見たことがなく、はっきり言えば地味な機能だった。そんな局所的な運用しか出来ない機能よりも、彼女にはコンピューター関連に強いというアドバンテージが存在した。
精密女は、では早速と言いながら、仕事の話を切り出した。勝手に怒って帰った私を、まだきちんとアルバイト扱いしているのだな、と私はどこか申し訳ない気持ちになっていた。
「実は急なんですが、明後日から一週間ほど、美楽華区に滞在しろという任務を、上司から言い渡されましてね、あなたにも協力いただきたいんですよ。もちろんいつも通りの給料は出ます」
「美楽華区って……どこですっけ」
私が訊くと、美雪が割って入って説明をしてくれた。
「この海把区からだと、電車で五駅隣の町だよ。行ったことない?」
「ない」
「そうか。私もないんだよね」
私もありませんよ、と精密女が同調する。
「この仕事に彩佳さんが必要なのは、美楽華区での軽そうな依頼が二つ同時に入ったからです。うちのチーム『戦慄』は、うちの施設の例に漏れず三人で構成されていますが、アルバイトのあなたを用いることが出来る唯一のチームなんですよ。つまり、この四人を二つに分けて同時に二つの任務をこなそうという、上司のエコロジックな悪い考えです」
「……茅島さんは?」
私が目も合わせないでそう尋ねると、精密女は私に対してサディズムを感じるかのように、笑いながら答えた。
「別に。元気にしていますよ」
「…………そうですか」
それだけ、たったそれだけ絞り出すのに、私は奥歯を噛みしめる。
見かねた美雪が、精密女を叱りながら私に告げた。
「もう! バカ精密女、そんなわけ無いって、あんただって知ってるじゃん!」美雪は精密女を叩いたが、当の彼女は何が面白いのかへらへらしていた。「彩佳、ふくみだって、彩佳のことはずっと気にしてるよ。この一週間、弱ったみたいに、あんまり元気ないんだよ」
「……そう」
私は、すこぶるどうでも良さそうに頷いた。
私と同じように、彼女も落ち込んでいるという事実に対して、安心や、加虐心よりも、申し訳無さと不条理な怒りのほうが勝った。
そんなことより、どうして、私よりもずっと、コミュニケーション能力が高い茅島さんが、私に連絡一つよこさないのか。どうして私をこんな目に遭わせているのか。どうして、あなたのために私は思い悩んで、右手なんかを怪我したのだろうか。
なんだか、このまま忘れ去られてしまいたいとすら、思ってしまった。私は、俯いてその感情を殺してしまいたかった。
「連絡しないの?」美雪が訊いた。
「……私が」
テーブルに突っ伏して、私は口を開く。
「上手く謝れるとは思えないよ……」
ちらりと、そのまま顔を動かして、時計を見た。何度確認したって、あの頃から一週間の日時が流れていた。脱いだ服を放置するように、何もしないでいたって、状況は良くならない。
わかっている、そんなことは。
わかっているのに、彼女に謝るという労力を割くのが、悲しいくらいに辛い。
毎日毎日、ただ時間に対して祈ることしか出来なかった。
ジュースを飲んでいた精密女が、呆れたように言う。
「美雪さん、こういうのは……相応のタイミングというのがありますよ。彼女たちはまあ、お互いにどこか強情さがありますから、すれ違いも起きましょう。謝ろうにも、心の整理がつかないこともあります。今は、謝る時ではないのかもしれません」彼女は私を見た。「先程、チームを二つに分けると説明しましたが、こちらの計画では、彩佳ふくみチーム、私と美雪チームで行こうと考えていました。ですが、こんな状態では無理ですね。ど彩佳さん、今回は辞めておきますか? 別に、四人でなければならない、というわけでもありませんし」
「…………」
私はすぐには答えられなかった。
思案した。確かに、私が言ったところで、多少の不便はあるのかもしれないけど、結果的には、うまく解決に持っていくに、違いはないだろう。
辞めるか。彼女と顔を合わせることが、これほど気に病むのだと言うなら、精密女が言うように、まだその時ではないのだろう。中途半端な時期に顔を合わせて、あの綺麗な瞳が、私を睨みつけることを考えただけで、私は虐待を受けた子供と大差ないくらいに萎縮してしまうようだった。
でも、だからといって、そのまま断って良いのだろうか。
こんな機会でもなければ、私は二度と、彼女の前に姿を現すきっかけなんて、無いのかもしれない。
それに、他にも理由はあった。
私が仕事で、危険な目にまた遭えばいい。そうすれば、私の心配だって理解してくれるに違いない。私があなたを失う恐怖を、同じくらいの解像度で知ってしまえばいい。
なんて独善的なことを、私は頭のどこかで考えた。
「……精密さん。私、行きます」
口にしてから、胃液の味のする後悔のような感情が、私を襲ってきた。
どうしよう。
今、どうして受けるなんて言ったんだろう。
最低な人間かもしれない。
「本当に、良いんですか?」
「…………」
頷く。
「しょうがないですねえ……」
見ていられない、と言いたげな表情を浮かべて、精密女は物騒な機械の指で顎を掻いた。
「ではこうしましょう。チーム分けは変更します。私が彩佳さんと一緒に行きましょう。私と、私のメンテナンスが可能な美雪さんを、別のチームに分ける意味はまるでないんですけど、私であれば、何かあった時に彩佳さんを守ることくらいは出来ます」
「チーム変更……」
「ええ。あなたは私のことは好きじゃないかもしれませんけど、こういうときのために、面白い話をいくつか用意していますから、退屈はさせませんよ」
「そう、ですか……」
一度決めた覚悟というか、嫌がらせが通らなくなって、どこかホッとしたように胸のつかえが少し下りた。彼女と会わなくて良いことと、自分を悪人にしなくてよかったことが、その大きな理由だった。
それで話が終わりそうだったのに、美雪が手を上げて否定する。
「精密、私が彩佳と行くよ。私のほうがいいと思う」
「どうしてです?」不思議そうな顔を少しも浮かべないで、いたって事務的に精密女は尋ねる。「あなただって、護身方面には向いていないでしょう? あなた達が一緒にいたって、特に意味はないと思いますけど」
「でも……私は、彩佳が心配だよ」美雪が口を曲げて、言う。「精密女が彩佳といたって、彩佳が緊張して潰れちゃうだけだよ。私なら、ちょっとはマシでしょ?」
「何を言いますか、面白い話を用意してると言ったでしょう」
「聞いたこと有るけど、それ、そんなに笑えないよ」
私の目を見て美雪が微笑む。あんただって、別に茅島さんに比べれば気を使ってしまうような相手ではあるけれど、確かに萎縮しながら話すような相手ではないことは間違いなかった。親戚の子供程度の認識を、私は彼女に持っている。
それでもいいか。諦めたように私が頷いたのを、精密女は確認して答える。
「……では、入念に支度をお願いしますね」彼女は指を使って説明した。「出発は三日後。美雪さんを待たせておきますので、駅に来てください。そこからの道順と詳しい仕事内容は、美雪さんに教えておきます。上司には、私から伝えておきますよ」
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