序 朝のレースの時間
彩佳1
廃ビルというものに足を踏み入れる時は、いつだって健全な精神状態じゃなかった。
私は深呼吸をわざとらしくしてから、扉すらどこかへ吹き飛んでしまった入り口をくぐり、自分の足音を殺すように、砂利なのか埃なのかが積もった床に、過剰とも言える慎重さで体重をコントロールして乗せた。
私じゃない誰かの、奥の方に向かう足音が聞こえる。
先程、銃を持った男がこのビルに入り込むのを見た。少し前に、ビル内に逃げ込んだ男の仲間だろう。その男を、私の唯一の友人である茅島ふくみとその同僚たちが追っていったのが、ほんの十分程前のことになる。
茅島さんたちは、男の様子を調べるために、こんな薄暗い廃ビルに潜り込んでいた。そういった危険を伴う調査が、彼女たちの仕事だった。にもかかわらず、私はアルバイトだという理由で、危ないから外で待っていろと言われた。
文句の言える立場ではなかった。彼女が私のことを、心配してくれているというのは、十分に伝わっていたのだが、どうにも言葉にできないような煮えきらなさが残った。そうして、地面に絵でも描いて暇をつぶしているうちに、銃を持った増員が現れたのだった。
茅島ふくみの耳は、機械化されていた。機械化能力者という、身体の一部を機械に換装して、そこに特殊な機能を埋め込んでいるサイボーグ人間のことを、俗称でそう呼ぶ事になっていた。だから彼女は、異常なほど耳が良く、ここで私が囁いたとしても、彼女は気づいてくれるだろう。
けれど、彼女だって全ての意識を、最初に追っていた男の方に向けていた場合、私の声なんかに気づくだろうか。銃を持って接近している男に注意するなんてことが、ひょっとすれば出来ないのかもしれなかった。
そこまで悩んだ挙げ句、私はビルに乗り込むことを決意した。勝手な行動なのはわかっていたし、まっとうな判断ではなかった。狂っている。そう自覚していた。
彼女たちの段取りとしては、男の調査を終えたあとに、茅島さんが屋上まで対象をおびき寄せて、隣のビルで待機している同僚の狙撃によって、男を制圧しようという話になっていた。私には聞いたところでよく理解も出来なから、詳しいことは赤子のように何も知らなかったが、概ねそんな流れだった。
新たに現れた男を、どうにかして止めないといけない。不意に鳴って、相手に気づかれる場合もあるから、彼女たちは携帯端末の電源も落としてた。
茅島さんが危ない。それだけが、私の頭のスペースの全てを占領していた。
茅島さん……
――彩佳は、ここにいて。
彼女は、私の右手を握りながら、私の名前を呼びながら、そう言い聞かせた。勝手に死んだりしない、とも口にしていたというのに、彼女との約束が、銃を持った新たな男のせいで、水みたいに漏れ出ていくような気がした。
私は、走った。このビルが何に使われていたのか、そんなことは知らない。どうせ、病院だとか、塾だとか、くだらない売店やパーツショップや、きっとそんなところだろう。壁も取り払われていて、遮蔽物はほとんど何もなかった。窓からは、風すらも吹き込んできていた。
なにもないおかげで、こちらの足音もよく響いた。
「誰だ!」
奥から声がする。
銃を持った、さっきの男だろうか。
そうだ、私を狙え。私を気にしろ。
お前たちが、茅島さんを殺していいはずがないんだ。
私は機械化能力者ではない。機能なんて、搭載していない。けれど、私を無視は出来ないはずだ。
私はひとしきり駆けて、駆けて、そうして疲れた頃になると、その場から動けなくなった。
足音。
男は思ったとおり、茅島さんから目を離して、私を気にしている。
「彩佳!」
茅島さんの声が聞こえる。
銃声。
激痛。
何が起こったのか、薄暗いビルの中では、理解までに時間がかかった。
ああ、右手が痛い。
きっと、撃たれてしまったのだろうか。
なんだか、濡れているような気がする。
血が、指先にまで垂れてきたのか。
右手が、まだ私の肉体にくっついていることしか、わからない。
「そこだな」
そう呟く声。近い。近くに、さっきの銃を持った男が、明らかに存在している。
痛い。
思ったよりもその痛みが、私を鈍らせた。動かなくてはいけないというのに、身体がそれを拒否していた。
死ぬのか?
殺されるのか?
茅島さんが、先に死んでしまうんじゃないかって思った時には、怒りのほうが勝ったような気さえしたが、いざ自分が先に死ぬとなると、ただごめんなさいとしか言いようがなかった。
介錯されるような気分だった。
私はその場に、正座をするような気持ちで、膝をついた。
呆気ないもんだ、人生なんて。
背後には窓。
月明かりが差し込んでくる。
男の顔。見覚えはない。知らない男に銃を向けられているという恐怖心すら、もう感じなかった。
銃が、気持ち悪いくらい、はっきりとした造形で網膜に写り込んでいた。
次の瞬間には銃声が鳴り響いて、
目を瞑っていた私は、
男が倒れる瞬間を、見逃した。
音を聞いて不思議に思って、ゆっくりと目を開けると、なんの疑いもなく私は生きていた。息だってできた。つばを吐くことも、悪態をつくことも、そう、茅島ふくみの名前を呼ぶことだって出来た。
銃声が聞こえたのは、私の背後からだった。
私は理解する。きっと茅島ふくみの同僚である精密女、そして八頭司美雪の二人が、私の背後から、あの物騒なライフル銃を使って、男を狙撃したのだろう。
私は、力を込めて身体を起こす。しばらく待っていると、もう一度銃声が聞こえた。屋上の方だった。最初に追っていた男が、きっと今の一発で仕留められて、そこで寝そべっている男のように、動けなくなっているはずだった。殺したわけではない。機械化能力者に対して有効な電流を流し込むだけの弾丸だ、と精密女はいつの日かそう説明していた。
奥の方から、こちらに向かって歩いてくる、茅島さんが見えた。
切るのが面倒なのか、かなり長い髪なのは昔から変わっていない。ちゃんと食事をとっているのか、少しだけ心配になるほどスレンダーな体格が、月明かりに照らされて気が狂ってしまいそうになるほど綺麗だった。
彼女の顔は信じられないくらいに整っているが、そんな相貌が、私に対する感情のせいで歪んでいるのがわかった。
怒られるようなことは――した。
「彩佳、どうしてこんな危ないことをしたの?」
私の目の前で、彼女は立ち止まって、問うた。足元で、埃が舞った。
「……銃を持って、入って行く男を見たんです」
私は顎で、倒れている男を指す。近くには銃もきっと落ちているだろう。
「それで、茅島さんが危ないと思ったんで、邪魔をしようと……」
「彩佳に、そんな危ないことまで頼んだ覚えはないわ」彼女は私から目線を外した。腕を組んでいた。彼女はよく、そうする。「私達が危険なのは……それが仕事だからしょうがないの」
しょうがない、なんて口にする彼女を、いつもなら受け入れるような私だったが、
どうしてだろう、死にかけたせいか、私は心が狭くなっていた。
「……しょうがないって、だからって、見過ごせとでも言うんですか? あなたが殺されたら……私は、どうしたらいいんですか」
「もう。死ぬつもりなんかないってば。この耳を使えば、男の存在と、銃の所持くらいは認知できたわ。仮に撃たれたとしたって、発砲音から射角は読めるから、反応さえ間に合えば当たることは……」
「死ぬつもりですよ、あなたはきっと」
私は、わざとらしく、不機嫌にそう答えた。
なにか、相手に嫌な感情を、与えたくて仕方がなかった。
私は、もうこの女を、失いたくないっていうのに、どうして説教されているのか、納得できなかった。
無闇に立ち入ったわけではない。悩んだ。悩んだ末に、彼女を失ってしまう寂しさに耐えきれる自信がなかったから、私は囮になろうと決心した。
なのに茅島ふくみは、理解しかねると言った表情を浮かべる。
「……彩佳、どうしてそこまで怒るの?」
…………。
「もういいです……」
切れた。
吊り橋を、切り落としたみたいに、興味が薄れた。
「いいって……なによ」彼女は眉をひそめた。
「……もう勝手に、殺されてください」
私は、その場を立ち去る。
逃げた、と言っても良かった。
「ちょっと、彩佳……!」
砂利か埃かを踏みながら、
耳をふさぎながら、私は彼女から遠ざかった。
でもきっと、茅島さんは私の背中を目で追ってはいないだろう。
精密女が出口にいて、私に声をかけてきたが、どうでも良かったので無視をした。
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