第9章 虹の彼方に(5)
カリヤ公は、モリスと会う前に中央宮殿に寄り、用を済ませてから、ふと母の姿を見とめて近づいた。客を送って出たところらしい。部屋に入って香茶を勧められ、少し近況を話したあと、
「いまの客は何の相談でしたか?」とカリヤ公が何げなく尋ねると、
「家族の幸せに関する話です」と軽く答えたアキノ夫人は空間を見ながら、
「愛する人の幸せのためにと、陰で耐えている人もいるのですね」
と言ってから息子の顔を見つめた。
「カリヤでは幸せに過ごしていますか?」
「みんな元気で幸せに暮らしていますから安心してください」
アキノ夫人は真面目な顔で頷いたが、その瞳は息子を労わるような優しさに充ちていた。
たまに会ってもあまり話すことはない。香茶を飲み終わって別れ、ハラド邸へ向かった。
街は明日の婚儀を祝う人々で賑わい、飾り付けをしながら談笑する姿も方々に見える。
ハラド邸で兄妹と水入らずの晩餐を楽しみながらの歓談はそれなりに快いものではあったが、明日から王妃になるアン公女の笑顔は、まだ心残りがあるのか少し影も横切る。
やがてクリスは王宮へ戻り、モリスも妹の様子を見て思い出したように
「部屋に忘れ物を取りに行ってくるから十分ほど失礼するよ」
とカリヤ公に断って部屋を出て行った。モリスが別れのひと時をと気遣ったのは判っていても、もう運命は決まっている。
二人だけになると、アン公女は意を決したように立ち上がり、近くの飾り棚から一つの箱を取り出した。見覚えのある箱だ。
カリヤ公に近づき、そっと卓上に差し出す。カリヤ公も立ち上がってアン公女を見つめた。
「この品物はお返しいたします。いままで私を支え、励ましてくれた大切な腕環ですけれど、これからはグラント王と新たな道へ進みたいと思っています。あなたの事は一生、忘れません。また王宮などでお会いするでしょうが、私に希望を与えてくださって有難う。感謝していますわ、カリヤ公」
カリヤ公はアン公女の手をとった。
「明日からあなたはダイゼンの王妃です。必ず国民が敬愛し、誇りとする王妃になられるでしょう。王と幸せに過ごされるよう祈っております。神の恵みがありますように……」
見上げるアン公女の瞳は潤んでいたが、しっかり頷いた顔は誇り高く美しい。
「最後にひとこと言わせてください」
カリヤ公は優しくアン公女を抱きかかえて耳元にささやいた。
「……アン……」
ハラド邸の部屋に夜鶯の啼く澄んだ美しい声が響いていた。
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