第9章 虹の彼方に(2)
侍女の報せで駆けつけたマリウスとクリスは血まみれの王子と、剣を手にした壮絶な苦い顔の王を見ながら、横たわった王妃を助けようとしたが、すでに息は止まっていた。
エンリ王子の行動に注意しながら見守ってきたマリウスは、自分も苦痛を感じながら侍医を呼び、王の指示に従って処置を済ませた。
エンリ王子の突然の死は心臓発作によるものとし、助けようとした王妃も思わぬ事態に気を失い、その衝撃で亡くなったのだ、とされたのだが……。突然の訃報は国民を驚かせた上に、どこから漏れたのか、エンリ王子が王位を奪おうと画策した結果の惨事だとうわさが広がった。王子の特別隊に疑惑を抱いた王は、ラビンを問い詰め、罪を認めた者たちを捕らえて労働刑務所へ送り込んだ。アレン侯家も謹慎と閉門を命じられ、騒がしい中でも尊敬されていた王妃の葬儀は厳かに行われて人々の涙を誘った。
一連の行事が終り、街は平常に戻っても、グラント王が家族と過ごした日々は戻らない。
「このような日々が余に訪れるとは……」
妃も息子もいない孤独の世界に耐えられず、呻き声を洩らす王を、側近たちは黙って見守るしかない。リード公夫妻やユリア公妃の慰めや励ましも王の心を安らげることはできなかった。森の館へ行っても、気を遣わせていると思えば居心地が良くないのだ。自分に慰めは必要ない、と思っても心を癒す場は欲しい。
中央宮殿で公務を済ませたあと、ふとアキノ夫人の部屋に立ち寄った王は、なぜか自分を解放できるような安心感を覚えた。カリヤ公の母であるという親近感もあったが、アキノ夫人が自然な態度で、慰めらしい言葉を口にせず、王が長椅子で横になっていても世話をやかない。前に置かれた卓上には香茶の用意や菓子、果実などもあるが、自由にどうぞ、という感じで放っておかれるのも気分がよかった。
アキノ夫人が調べものをしたり、客の相談記録などを書いている側で、長椅子に寄りかかりながら、ゆったりとした時を過ごし、たまに唸り声を発しても、知らぬ顔で淡々としているアキノ夫人を何となく見つめる。様々な思いが浮かんでは消えていくようだった。
やがて鎮魂祭も終わり、半年ほどが過ぎたころ、アキノ夫人が珍しく紅茶を勧めながら、グラント王に話しかけた。
「香茶も良いお味ですけれど、違う味もよろしいのではありませんか? この紅茶は気分を和らげて新鮮な力を与えてくれるようです」
「美しい色だ。味も良いな」あまり他国の飲み物には興味を示さない王も、気に入ったのか、ゆっくり味わっていると、
「そろそろ次の王妃をお決めになりませんか」
急な話に王は、ん? と手を止めてアキノ夫人を見つめた。
「王には王妃が必要ですわ。身近にふさわしい方がおられます」
「考えねばならぬときがきたというのか?」
「結婚の星が近づいています。今度は末長く幸せに過ごされるでしょう。ダイゼンも平和な時代に入り、安泰の日々が続くと思います」
「夫人はだれが良いと思うのだ?」
「それは王ご自身でお決めになることですけれど、もしグラント王子が十七歳の頃、社交界に入っていらしたら、選んでおられた方かもしれません」
王の探るような瞳がじっと夫人を見つめる。
「それで良いか? カリヤ公にも訊いてみたい」
「息子も王のお幸せを願っていると存じます」
にこやかな夫人の顔を見て王は頷いた。カリヤ公の気持ちを考えると、ためらいもあるが、彼には家庭も妻もある。いまは自分の幸せを優先しよう。王は心に決めて立ち上がった。自分の幸不幸は国や国民にもつながっていくのだ。まず自分が幸せにならなければ……。
グラント王は二年ほど幾つかの国へ行き、自由と冒険を満喫したが、どこの国にも無頼の者や、乱暴な若者たちが存在する。山賊に取り囲まれたり、不意の襲撃に危なかったこともある。
危急の時と見ればセキトやタクトたちが、さっと現れて剣を揮い、安全を確かめると素早く姿を隠す。影の護衛に徹して、表に出ることはなかった。
しかしクリスとアン公女は姿を隠す必要もないと判断し、無礼者を追い払ったあと、話を交わして、いつの間にか一緒に食事をする機会も増えた。
グラント王は初めアン公女の存在に気づかなかったが、鋭い剣の遣い手が女性と知り、クリスの妹と判ってからは夕食に誘うようになった。王宮の行事や親睦会で話したり、舞踏会で踊ったこともある周知の間柄だ。
会食中もアン公女は控えめに振る舞い、王の問いに答えるだけで、三人の話を聞いていることが多かったが、ある時、ふとアン公女の腕環に目を止めた王が
「どこの産物だ?」と尋ねた。
アン公女は卓上にあった手を下ろして少し目を伏せ、代わりにクリスが、
「カリヤへ出かけたときの土産のようです」
と、あっさり答えたのだが、アン公女の曖昧な表情に気づいた王は、
「カリヤへは何の用だ? 観光か?」と訊く。
「いいえ、兄が療養に行ったとき、見舞いに参りました」
つづけてクリスが
「豪商カーンの店がカリヤにもありまして、これは観光土産に人気の品ですが、硝子でできているとは思えない美しさで、アンは気に入っているようです」
と説明する。王は興味を持ったらしい。
「イルシアを裕福な国に変えたという、あの豪商カーンか。なかなかの人物らしいな」
促されてアン公女が卓上に手を差し出すと、王はしばらく見つめてから
「碧い玉も美しいが、ちりばめられている紅玉は、まるで碧玉に寄り添っているようではないか」
と感想を洩らした。
「アン公女が大事にしているところを見ると大切な思いが秘められているのだろう」
王は冗談半分の笑顔だが、アン公女は少し頬を染め、カリヤ公は知らぬふりでさりげなく話を変えた。その頃から王は、カリヤ公とアン公女の関係に注目し始めた。
互いに節度を守って、親しく話をすることもないが、何となく微妙な雰囲気を感じる。
モリスの見舞いにカリヤへ行ったとすれば、カリヤ公とも会ったり話したりしたはずだ。カリヤ公も妻子がいるとはいえ、モリスの妹ともっと親しく会話を交わしても良いと思うのだが。王は関心を持ちながら知らない顔をして、旅を続けてきた。
帰国してからの舞踏会では、王妃や公妃のほかに、アン公女とも親しく踊りながら話し合っているグラント王は楽しそうだった。
それでも王妃が生存中には特別な感情は起こらなかったのだが、さて次の王妃を、と考えたとき、まず頭に浮かんだのはアン公女だった。公家の中でも名門の令嬢であり、剣術でも名高く尊敬されている。もう剣を扱うことはないだろうが、強国の王妃としてふさわしいではないか。
カリヤ公が反対するとは思えないが、この先の親交を考えれば、賛成し、祝福してほしい。
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